Up 「意味」と無縁 作成: 2014-06-27
更新: 2014-07-12


    <学校数学=生態系>は,個々の<生きる>が現す系である。
    「意味」で立っているのではない。
    学校数学は,「意味」と無縁である。

      これは,経済が「意味」と無縁であるのと同じである。
      ──実際,<学校数学=生態系>は,経済の部分系と見なせる。

    そもそも学校数学の「意味」を述べるとはどういうことか?
    学校数学を教育として理由づける形は,「形式陶冶」のみとなる。
    「学校数学=形式陶冶」の「形式」とは?
    このときの「形式陶冶」の「形式」は,現成である。
    一方,ひとが通常考える《「形式」を説明する》は,これの機能・用途を述べることである。
    現成は,機能・用途とは無縁である。「形式」はひとが通常考えるようには述べられないわけである。

    このことの理解に,コネクショニズム・コンピュータのアナロジーが役立つ。
    コンピュータに「意味」を与えるものは,プログラムである。 通常のコンピュータはこの様式であり,フォン・ノイマン型という。
    コネクショニズム・コンピュータは,構造を人の神経回路と同じに考えた,自己学習型コンピュータである。 情報ネットワークを自己形成する。 このネットワークは,現成である。
    外の観察者は,自分の目的・都合を以て,ネットワークに「意味」を与えようとする。 しかし,ネットワークは,「意味」とは無縁である。

     参考 :

    数学教育の一般向けテクストは,学校数学の意味を明解に述べている。
    これは,ことば (概念) と身体的実体の対応理論 (表象主義/認知科学) を立場にしているからである。
    この立場では,身体の事態は,ことばで述べられる。
    ことばにしたものが,身体の事態の意味である。
    一方,本論考の「現成」の立場は,表象主義を却ける立場となる。