Up 個の主観の「是」は,系の攪乱が効用 作成: 2014-06-27
更新: 2014-07-02


    <学校数学=生態系>は,自己維持する系であり,そして自己維持に攪乱を用いる。
    攪乱の主体は,そこに棲む者である。
    即ち,そのある者は,「学校数学の実践」として「是」を行う。 そしてこの「是」の意識で行う実践が,学校数学の攪乱になる。

    実際,学校数学の実践は,学校数学の攪乱で終始する。
    人の立てる「是非」は,数学教育の是非と無縁である。
    「改革プロジェクト」は「是」の行動だが,学校数学の攪乱で終始する。

    どうしてこうなるのか?
    「是」は,人の思いつき/思考停止/未熟だからである。
    思いつき/思考停止/未熟でつくられるものは,系の攪乱にしかならない。 かつ,系のちょうどよい攪乱になる。

    一方,仮に複雑を捉え,数学教育の是になるものを捉えたとしても,こんどは遂行する力がない。
    その是の内容が,能力を超えるものになるからである。
    特に,教員の力量不足が目立つようになる。(『学校数学教員論』 )

    「是」の行動が強力になって,系の均衡モーメントに克つに及ぶと,それは系の攪乱を超えた系破壊になる。 系の均衡モーメントに克つとは,系に対し無理を行うということだからである。
    この場合はどうなるか?

    系の破壊は,そこに棲む者自身の破滅である。
    そこで,破壊もほどほどのところで収まる。
    つぎに,系は破壊に対し自己修復する
    この修復は,復元ではなく,奇形化 (「進化」) である。