Up 答えの構成 作成: 2013-10-10
更新: 2014-03-28


    本論考は,全体論考の最後のモジュールとしてとしてつくるものである。
    全体論考は,学校数学の意味の論考である。
    ただし,「学校数学の意味」を「学校数学の生徒であることの意味」として論考する。

    1. 人材育成=人材選別
    学校数学は,国の人材づくりとして行われている。
    数学力のある人材の育成が,目的である。

    人材育成は,自ずと「人材選別」──「<学習レベルを上げる>に<選別プロセスから脱ける者を出す>を重ねる」──を形にするものになる。
    なぜか?
    数学力のつき方には,個の多様性がある。
    個の多様性に人材育成を重ねるとき,人材育成は「人材選別」の形が合理的になる。

    2.学校数学は何のため?
    「選別プロセスから脱ける」とは,「自分は,いま課せられている学校数学の勉強を,必要としない」を言う者になるということである。
    しかし,選別プロセスから脱ける者も,形の上では学校数学に留まる者になる。
    ここに,彼らにとっての「学校数学は何のため?」が,問題になる。
    この問いに対しては,どう答えることになるか?

    3.現前の学校数学からは,何が得られるか?
    学校数学は何のため?」の答えの論考は,この問いを「学校数学は何の役にたつ?」に転じないことが要点になる。 なぜなら,「用・無用」の区別を立てようとするのは,「無用の用」に進んで破綻する試みだからである。

    全体論考の「学校数学は何のため?」は,つぎをこれの言い換えとするものである:
      現前の学校数学からは,何が得られるか?

    4.「学校数学=形式陶冶」
    現前の学校数学からは,何が得られるか?
    現前は,「誰にどんな得」の多様性を現す。
    全体論考は,「誰にどんな得」の根本に「勉強する者すべてにどんな得」があるとする。

    組織の論理が立てる「得」を一方に見つつ,この根本を見据えるとき,「学校数学は「形式陶冶」として立つのみ」となる。

    こうして全体論考は,ここより,「学校数学=形式陶冶」の立論に進む。

    5.「形式」とは?

    全体論考の「形式陶冶」は,「形式」が「外なる形式」である。
    「形式陶冶」は,「外なる形式が自分に届くカラダづくり」の意味になる。

     註 : 西洋思想・哲学は,「内なるもの」を立てることが主流であり,「形式陶冶」の考えもこの流れの中にあった。


    6.「授業運」論へ

    全体論考は,生徒からの「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」の問いに対し,「得は,<形式>」「得は,形式が届くカラダ」「その形式とは,‥‥」を答えにする。

    この答えは,まだ,「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」の問いを収めるものにはなっていない。
    実際,この問いは,問い「自分の学校数学の勉強とこれの得は,他と比べてどんな?」に転じることになるからである。
    そしてこれは,「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の問いになる。

    全体論考は,「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の問いを収めることを以て閉じられることになる。
    本論考は,これを行うものであり,この問いを「授業運」で収めようとする。