Up 「授業運」の答え 作成: 2014-04-11
更新: 2014-04-12


(作業中)

    本論考の全体論考は,「学校数学の勉強は何のため?」の答えをつくろうとするものである。
    そして本論考の前までの到達点が,「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」の問いに対する,つぎの答えである:
      得は,<形式> ──得は,形式が届くカラダ
       (「その形式とは,‥‥」)

    この答えは,まだ,「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」の問いを収めるものにはなっていない。
    実際,この問いは,「自分の学校数学の勉強とこれの得は,他と比べてどんな?」に転じることになるからである。
    そしてこれは,「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の問いになる。

    本論考は,「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の問いに対し,「授業運」を答えにしようとするものである。


    自分の学校数学の勉強とこれの得を,他と比べてみる。
    授業間の差異/格差が,見えてくる。

    この差異/格差に対しては,「優劣」を見たくなる。
    しかし,自分と他との比較をさらに進め,深めていくとき,それぞれにおいて「相手より優れている」「相手より劣っている」の両方のあることが感じられる。
    もっとも,その感じは曖昧なものである。
    はっきりさせようとすると,「優れている」が「劣っている」に転じ,「劣っている」が「優れている」に転じる,ということが起こる。

    考えれば考えるほど,場合は,優劣ではなく,特個性になっていく。
    場合のいろいろは,優劣のいろいろではなく,特個の多様性のことになっていく。

    しかも,この特個の多様性は,存在としてひじょうに重いものであることが感じられてくる。
    実際,これは,複雑系の均衡の相である。

    この認識に立って,ここでつぎの問いを立てる:
      《自分が一つの特個になっていること──他の特個ではないこと──を
       どう受けとめるか?》

    これは,「運」とするのみである。
    そして,この「運」の考えで肝心なことは,「運」は「幸運・不運」ではないということである。
    実際,特個が優劣でないとき,どれかの特個に自分がなるその「運」は,「幸運・不運」ではない。

    どうして「幸運・不運」でないと言えるのか?
    ここで論拠にしようとするのが,「複雑系の均衡の相」である。

    この系には,「授業一律化」の各種モーメントが含まれ,機能している。
    これらが,「幸運・不運」のデコボコを許容範囲内に収める。
    即ち,「優劣」ではなく「個の多様性」に収める。

    ここで,「「個の多様性」に収める」は,つぎを意味する:
      《生徒はそれぞれ,特個的場合で特個的強みを形成していく》

    本論考は,学校数学のデコボコを許容範囲内とする。
    本論考は,「学校数学は,そんなにひどいことにはならない」の論になる。
    学校数学がそんなにひどいことにはならないのは,そんなにひどいことにはならない手立てを,「ベスト・エフォート」の形でやってきているからである。
    教員免許制度があり,教員研鑽の装置が各種あり,そして欠点をたくさんもちながらも自己成長に努め,授業の改善に努力しているのが教員だからである。
    本論考は,は,これらを括ることばとして,「「授業一律化」の各種モーメント」を用いてきた。

    場合のいろいろは,優劣のいろいろではなく,特個の多様性」の規準 (criteria) は,「自分の場合を受容できる──納得できる」である。
    「自分の場合を受容できる」は,つぎの想像・達観と合い俟つ:
      どの場合にも,それ固有の不満・不幸がある。
      自分の場合にも,よいところはある──悪いことばかりではない。
      どの場合も,長い時間スパンで考えれば,結果オーライになる。

    以上ひっくるめて,「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の問いに対しては,本論考はつぎのように答えることになる。
      まあまあだとしてよい。
       よい点も,さがせばいろいろあるはず。
       自分の場合で,ベストに成長することを考えればよい。
       他に繁く目移りするのは,よい結果にならない。
       実際,「いい授業」とは,ことばでだけ存在するもの──実在しない。