Up 「授業の差異/格差」の程度:要旨 作成: 2014-04-15
更新: 2014-04-15


    授業に差異/格差が存在することは,当然のことであり,このこと自体は問題になることではない。
    問題になるのは,差異/格差の程度である。
    「程度問題」が,差異/格差を問題にする形である。

    差異/格差の程度をひどくしないために,「教育における平等」が法になっている。
    「教育における平等」の意味は,「差異/格差を無くす」ではなく,「差異/格差をひどくはしない」である。

    「差異/格差」は,だいたいが,<めぐまれている>に対し<ひどい>を立てる論じ方になる。
    翻って,<めぐまれている>が立たなければ,このタイプの論は立たないことになる。

    <めぐまれている>は,幻想である。
    学校数学では,「よい授業」というのは,ことばでだけ存在するものである。
    どの授業も,内容的にインチキである。
    内容的にインチキなのであるから,学校数学の授業に「優劣」を立てようというのは,無意味であり無駄である。

    「よい授業」はなくて,ただ「悪い授業」がある。
    「悪い授業」とは,生徒が自身を授業からシャットアウトするようになる授業である。
    授業は,この「悪い授業」でなければ,何でも同じである。

    「悪い授業」でないとは,生徒がアタマ・カラダを動かす授業になっているということである。
    授業は,生徒がアタマ・カラダを動かしていれば,内容は何でもよい。
    実際,強調するが,学校数学ではどの授業も内容的にインチキなのである。