Up <遊ばせる> 作成: 2014-02-24
更新: 2014-04-12


    <教える>をしない授業は,<遊ばせる>である。
    <遊ばせる>は,指導法として,授業の差異/格差の要素になる。

    <遊ばせる>では,数学の学習は成らない。
    授業者は《生徒は<遊ぶ>の中で暗黙に学習している》とするが,数学の学習はそんなふうにして成るものではない。

    <遊ばせる>の授業は,<教える>をしない授業であるから,「学力低下」を起こす。
    学校数学は,「数学 − 数学」の振り子運動,「数学的○○」の攪乱・均衡回帰運動を,同時に運動している。そして,「数学」と「数学的○○」の攪乱期が,<遊ばせる>の時節である。

    しかし,<遊ばせる>の授業は,「学力低下」を起こす授業である一方で,生徒を授業から脱けさせまいとする授業である。
    <遊ばせる>を択る者は,<教える>が授業から脱ける者をつくってしまうことを観ている。
    授業は,授業から脱けることになった者にとっては,無意味である。
    対して,授業に留まっていれば,成長のための何かを得ることになる。
    そこで,<教える>だと授業から脱けることになる生徒にとって,<遊ばせる>は「よい指導法」である。

    <遊ばせる>を「よい指導法」にすることは,逆に,「<教える>だと授業から脱けてしまう生徒」をつくることになる。
    授業を<遊ばせる>にしてもよい場合は,ごく限られてくる。