Up 授業の特個性:要旨 作成: 2013-01-27
更新: 2014-03-08


    授業は多様である。 そしてその多様性は,価値通約できる多様性ではない。
    授業は,特個である。
    授業の「多様性」は,価値の高い低いではなく,特個の様々である。

    実際,価値は,交換が現すものである。 価値は,「交換価値」である。 (例:学校の人気ランクは,学校の交換価値である。)
    しかし,授業は,交換が立たないものである (「生徒は授業を選べない」)。 価値を言うといえば,それは「使用価値」の方であり,そして「使用価値」は相対性である。
    授業のいろいろは,例えば生き物のいろいろのように見るものとなる。 ──これらは,「価値通約できない」。

    また,「授業は価値通約できない」は,つぎの論法で導くことも考えられる:
      「<授業=形式陶冶>は,形式の相対性により,価値で通約するというものにならない」

    さらに,「いろいろ」は,《この配分には理がある》と見るところとなる。
    <個の多様性>は,種/存在の理の実現である。
    <個の多様性>は,<独自>の数配分に現れる。
    <独自>はその数配分において独自の役割を果たす。

    生物種は,「個の多様性」をつくる。
    「個の多様性」が種の存在の要件になるからである。
    種の「生きる」には,「個の多様性」の含意がある。

    種は,自身の「生きる」として,諸処に「個の多様性」実現の装置をつくっていく様を現す。
    学校数学──その授業──は,「個の多様性」を実現するところのものである。
    そして,授業の「個の多様性」の相が,「授業特個──価値通約不能」である。


     註 : 授業に対して「個の多様性」をいうときの「個」は,自ずと多義的になる。 ──授業,授業の実現する<ジタバタ>,教員,生徒,いずれもこのときの「個」になる。