Up 行為 :「ジタバタを課す」 作成: 2013-01-25
更新: 2014-03-08


    授業は,多様な「教師」の行うものとして,多様になる。
    実際,授業になっていないものもある。
    そこで,何をやっていれば「授業」か?という,「授業」の規準 (criteria) を考えることになる。

    簡単な例として,初心者の行う「授業」は授業になっていない。
    初心者は,無駄・余計ばかりして,肝心をしない。」(「初心者」の定義)
    即ち,どうするのが授業かを知らない者は,授業の体裁づくりをする。
    そして,このときの「体裁」がすべて,「無駄・余計」になってしまう。

    「肝心」は何か?
    《生徒にジタバタさせる》である。

    何かがわかるようになる・できるようになるためには,ジタバタしなければならない。
    <ジタバタ>が,勉強行動であり,成長行動である。
    そして,ジタバタしない者は,ジタバタできない者になる。
    授業は,その必要なジタバタをさせるものである。

     例 : 中学数学の図形の論証は,白紙を<ああでもないこうでもない>の作図で埋め尽くす作業である。
    この<ジタバタ>の中で,解法が浮かび上がり,併せてカラダがつくられていく。
    論証は,肉体作業であり,アタマの中の<考える>ではない。


    さらに言えば,わかる・できるに至るかどうかは,「ジタバタ」の二の次である。
    肝心は,「ジタバタ」にある。
    なぜか?
    授業は生徒にとって所与であるが,生徒は「ジタバタ」を自己実現の<契機>にする。

    本論考は,「授業」の行為を,単純に「生徒にジタバタさせる」であるとする。
    翻って,「生徒のジタバタがない」は,「授業になっていない」である。

     註 : いまの教員は,授業を体裁でする者になっている。
    「授業研究」が,「ワークシート配布」「机間巡視」「グループになって交流」「ディスプレイ」の類の「授業の体裁」を熱心に語ることを専らにするものになり,授業の「肝心」(「ジタバタを課す」) が「無駄・余計」に締め出されるふうになった。


    「ジタバタ」の言い回しは,「負荷」と「主体的」が要点であることを言うためである。

    (1) 負荷
    授業のアウトプットは,生徒の成長である。
    「成長」は,「新しい神経回路がつくられる」である。
    授業は,「新しい神経回路がつくられる」を実現する活動を,生徒に課すものである。
    そしてその活動は,「ジタバタ」である。


    (2) 主体的
    授業は,「ジタバタを課す」である。
    「ジタバタを課す」は,「ひとりひとりに課す」である。
    「ジタバタ」は自分がするものであり,ひとにしてもらうものではない。

    「ひとりひとりに課す」を強調しなければならない。
    なぜなら,授業は,「交流」が入ってきて以来,《できる子が活動,できない子はそれを見て学習》が学習活動になってしまい,「ひとりひとりに課す」がすっかり無くなってしまったからである。