Up 目的論と存在論 作成: 2014-03-22
更新: 2014-03-22


    本論考は,生徒の問いになる「学校数学の勉強は何のため?」 を主題にする全体論考の最終章である。
    この問いの答えをつくる論考は,存在論の論考になる。
    この主題の困難の本質は,存在論の困難である。

    数学教育の概論本には,「学校数学の勉強は何のため?」の答えが箇条書きで述べられている。
    しかし,それは目的論である。
    つぎの二つは,違うものである:
      「社会通念は,《学校数学の勉強を生徒に課す》に,どんな目的・意義を立てているか?」
    「《学校数学の勉強を生徒に課す》は,生徒にとってどんなリアリティーになっているか?」
    前者が目的論,後者が存在論である。

    存在論とは何か?
    最も単純な存在論として, 「唯物論」というのがある。
    唯物論では,「このコーヒーカップ」という存在が立つ。
    しかし,当のコーヒーカップにしてみれば,自分は「コーヒーカップ」であるわけではない。 時間の大部分はコーヒーとは無縁である。 そもそも「コーヒーカップ」は「コーヒー」を対象化しない。 ただ,世に現れ,時間の中に存在しつつ,劣化し,破棄され,壊れ,世から無くなる,という「ライフ」を過ごす。
    当のコーヒーカップの存在論の内容になるものは,この「ライフ」の方である。
    そしてこの「ライフ」を捉えようとすると,「コーヒーカップ」を立てる以前に,存在の同一性も無くなってしまう。
    存在論とは,この捉えようのない事態を大真面目に論じるというものである。

    このような面倒くさい存在論は,数学教育の話とは無縁であるように思われるだろう。
    しかし,「個にとって授業とは?」を内容とする「授業」の論考は,存在論になるのみなのである。
    実際,「この数学のこの授業を受けるこの生徒」は,上に述べた「このコーヒーカップ」と同じことになる。
    即ち,「数学」「授業」「生徒」というふうに存在を立てるたびに,その存在の同一性が無くなってしまう。 そこで,「存在」の意味を改めて考えねばならなくなる。