Up | 授業/学校数学は<生きる>の現象 | 作成: 2014-05-02 更新: 2014-05-02 |
即ち,授業/学校数学は,人の《授業/学校数学を生きる・授業/学校数学に生かされる》の現象である。 授業/学校数学が人の<生きる>の契機であると同時に,人の<生きる>が授業/学校数学の契機である。 <生きる>は,無目的である。 実際,<生きる>は,所与である。 人は,<生きる>を行うものとして存在を開始する。 <生きる>の目的は,後付けされる。 その後付けは,「合理化」である。 これは,授業/学校数学の無目的性を意味する。 人は,自分の《授業/学校数学を生きる・授業/学校数学に生かされる》を,自分の好ましい形にしようとする。 この行動は,「個の多様性」に応じて,多様なものになる。 この多様性の定常均衡相が,授業/学校数学の現前である。 現前の授業/学校数学は,「これが数学教育か?」といぶかしむようなものである。 そして,こうなって当たり前なのである。 人は,自分の《授業/学校数学を生きる・授業/学校数学に生かされる》を,自分の好ましい形にしようとする。 この結果が,授業/学校数学の現前だからである。 よくよく留意すべし。 人は,数学の素人である。数学教育の素人である。 数学の素人,数学教育の素人が,《授業/学校数学を生きる・授業/学校数学に生かされる》を自分の好ましい形にしようとし,行動する。 この結果である授業/学校数学は,当然,「数学教育」の名に価しないものになる。 そして,この事態は,現前の授業/学校数学の批判に及ぶものではない。 授業/学校数学は,人の<生きる>の手段である。 手段として成立していれば,それは「正しい」のである。 逆に,授業/学校数学を「数学教育」にしようとして人が係われないものにしてしまうことは,「誤り」である。 よって,現前の授業/学校数学は,「正しい」のである。 「この他にはない (No more than this)」 |