Up 要旨 作成: 2013-07-14
更新: 2013-10-04


    本論考は,つぎの2部構成になる:
      第1部 「形式」の存在措定
      第2部 「形式」の記述

    (1) 「形式」の存在措定

    「形式陶冶」の言い回しには,「形式はカラダの内にある」が含蓄されている。
    しかし,「カラダの内なる形式」の立論・論述の目論見は,すぐに頓挫する。
    即ち,このときの「形式」の論述は,ことばの概念分析と変わらないものになる。
    ことばにした「形式」は,すべて一般概念であり,八方美人の趣きになる(例:「論理的に考える力」) 「八方美人的」は「万能」に転じ,これは実感のついて行けないものになる。

    本論考は,「カラダの内なる形式」の立論・論述の困難を,この考えの誤りによるとする。
    「形式陶冶」「形式はカラダの内にある」は,「概念形成」「概念はカラダの内にある」と通じるものである。
    ここで,カラダの内に「概念」や「形式」を考える思考法を,相対化してみる。
    それは,どういう思想傾向として位置づくものか?
    それは,西洋思想・哲学の伝統になるところの表象主義である。

    本論考の方法は,「形式」をカラダの外なる存在にするというものである。
    カラダを,外なる形式に対する同調器・受容器・反応器とする──「形式が届くカラダ」。
    「形式陶冶」を,「形式が届くカラダ」づくりであるとする。

    では,これはどのようなカラダづくり (「成長」) か?
    本論考はこのカラダづくりを,経験の「堆積と風化」,経験の「無用の用」で考える。
    形式が届くカラダは,直接造形できない。 「堆積と風化」「無用の用」という迂遠を通して,造形になる。
    「勉強」は「堆積」のプロセスであり,これの「風化」として現れてくるものが「形式をとらえるカラダ」である。
    あるいは,「勉強」は,これの累積のうちに勉強個々を「無用」に現し,「形式をとらえるカラダ」を勉強個々の「用」に現していくプロセスである。

    学校数学の勉強の得は,形式が届くカラダである。
    このカラダは直接得られない。
    学校数学の勉強という迂遠を通して得るのみである。
    学校数学は何のため?」の答えの要諦は,この「迂遠」の理解である。


    (2) 「形式」の記述

    「形式」の存在措定では,「形式」をカラダの外なる存在とした。
    カラダを,外なる形式に対する共振器・受容器・反応器とする。
    「形式陶冶」を,外なる形式との同調をするようになるカラダづくりであるとする。

    このとき,「形式」は神秘的なものではなくなる。
    実際,わたしが例えば『数学の授業法』を書くとき,それは数学の授業の形式を書いているのである。
    わたしがこの論を書けるのは,この分野で,鍛錬してカラダをつくってきたからである。 ──これが,「形式陶冶」である。「形式陶冶」は,(カラダの外なる) 形式をとらえるカラダづくりである。

    そこで本論考は,つぎの論考である:
      《「学校数学=形式陶冶」の「形式」をカラダの外なる存在にしたとき,
       「形式」の記述はどのようなものになるか?》

    「形式」の存在措定は,「形式」の記述で試される。
    実際,「形式」を記述することは,「形式」の存在論をやることである。