Up 「形式陶冶」は記述できない 作成: 2013-10-06
更新: 2013-10-06


    「形式陶冶」を記述するとは,「形式陶冶」を存在として立てつつこれを記述するということである。
    「形式陶冶」を存在にする形は,「勉強を契機にして進捗するプロセス」である。

    しかし,「勉強を契機にして進捗するプロセス」は,存在に成し得ない。
    なぜか?

    ここで,逆に,存在になると思う理由を考えてみる。
    それは,「プロセス」を水の流れのようにイメージするからである:《要素の保存・追加・移動》

    一方,「勉強を契機にして進捗するプロセス」は,「<食べる>を契機にして進捗するプロセス」と同じである。
    いま食べたものに対し,「どこに行ったか」を記述しようとするのは,的外れである。 「何に変じたか」を記述しようとするのも,的外れである。
    ものを食べるとは,そのものがどこかに行くとか,何かに変じるというものではないからである。
    そのものが先ず無くなってしまうのである。 したがって,「どこに行く」「何に変じる」もないわけである。

    「形式陶冶」は,存在として立てるものにならない。
    したがって特に,記述するものにならない。

     註 : 「記述するものにならない」「存在として立てるものにならない」は,「そのようなものは無い」ではない。
    「記述する」「存在として立てる」は,行為である。「有る・無い」は,存在である。 行為と存在は,別次元のものである。 対応する理由はない。