Up 「形式」の記述はふつうのこと──「肝心」の記述 作成: 2013-09-10
更新: 2013-09-17


    素人は,無駄・余計ばかりして,肝心をしない。
    「無駄・余計ばかりして,肝心をしない」が「素人」の定義,というわけである。
    素人は,外界がノイズになっている様である。
    わけがわからないので,行うことは「無駄・余計」になる。
    経験を積むうちに,ノイズが薄れ,物事の輪郭──物事の「肝心」──が見えてくる。

    このときの「肝心」が,「形式」にあたる。
    ──そして,「経験を積む」が,「形式陶冶」にあたる。

    そこで,「肝心」の記述は「形式」の記述である。
    ところで,「肝心」の記述は,ふつうのことである。 ──ことば不自由な記述にはなっても,記述すること自体はふつうのことである。
    よって,「「形式」の記述はふつうのこと」となる。

    繰り返す:「形式」の記述は,特別のことではない。
    実際,何かについてそれの「肝心」を書いているとき,書いているものはその何かの形式である。

    何かの「表現」は,それの形式を書こうとするものである。
    何かの本質論は,それの形式を書こうとするものである。
    何かの境地の論述は,それの形式を書こうとするものである。

    わたしが例えば『数学の授業法』を書くとき,それは数学の授業の形式を書いているのである。
    わたしがこの論を書けるのは,この分野で,鍛錬してカラダをつくってきたからである。 ──これが,「形式陶冶」である。