Up 「形式」の記述内容:要旨 作成: 2013-09-25
更新: 2013-10-06


    「形式」の記述として目指すものは,「学校数学=形式陶冶」の謂う「形式」 の記述である。 これは,「学校数学を勉強するとどんな形式が自分に届くようになるか?」の記述である。
    論考は,この記述にどうアプローチするかというところから,始めることになる。

    「形式」の記述では,つぎの二つの区別が要点になる:
    1. 「形式」の記述一般
    2. 「形式陶冶」の「形式」の記述
    実際,「形式」の記述は,ふつうのことである。 例えば,物事の「肝心」を書いているとき,それはその物事の「形式」を記述している。
    一方,「形式陶冶」の「形式」の記述は,できないことである。
    「できない」の意味は,「困難」ではなく,「無理」である。

    「形式陶冶」は,「形式が届くカラダ」がつくられるプロセスであり,これの記述は「成長」の記述である。
    『「形式」の存在措定』は,「堆積と風化」「無用の用」をこのプロセスの説明にした。 そこで,「堆積と風化」「無用の用」のそれぞれを,「学校数学の勉強」に引き寄せて論考する。

    「堆積と風化」「無用の用」は,「学校数学の勉強」のその都度,進行している。
    この運動のなかに,一つの「学校数学の勉強」が直ちに「形式が自分に届く」とつながる位相がある。 数学の出自になる形式が,このときの「形式」である。

    実際,数学を勉強するとは,その数学の出自になる形式を勉強することである。
    この形式は,自分に届くものになる。 ──この意味で,学校数学の勉強には「直接的形式陶冶」の一面がある。 (「実質陶冶」のことばは,この「直接的形式陶冶」を指していることになる。)
    そして,この内容を記述することは,「形式が自分に届く」の記述の一つになる。

    この一局の勉強経験は,続いて「堆積と風化」「無用の用」のプロセスの中に入っていく。
    これが勉強経験ごとに順次起こって,形式が自分に届くカラダがつくられていく。
    このレベルの「形式」は,もはや記述するものにならない。
    ただし,「対象性そのものが立たない」が,根本の理由である。
    「形式」の記述は,「対象性そのものが立たない」の論述に代えることになる。