Up 「堆積と風化」 作成: 2013-10-03
更新: 2013-10-03


    個々の経験に対し,カラダはこれにリアクションする趣で自身を変容する。
    そして,経験は累積し,カラダの変容は進行する──「成長」。
    一つの経験に応じたであろうカラダの変容は,「成長」の中に埋没し,跡を留めない。
    これを,経験の「堆積と風化」として見る。


    「堆積と風化」を,「形式が届くカラダ」に適用する。
    「勉強」は「堆積」のプロセスであり,これに「風化」が加わって現れてくるものが「形式が届くカラダ」である。

    このように言う根拠は?
    本論考の場合,それは「自己観察」である。

    わたし自身を「堆積と風化」の例にするとき,「勉強」は大学学部の数学専攻時代の「ブルバキ数学原論の勉強」,「形式が届くカラダ」は「構造が届くカラダ」,ということになる。
    実際,わたしは学部数学専攻時代を,「集中度」という意味では,ほぼ「ブルバキ数学原論の勉強」に費やした。
    そして,「何に対しても構造で見る・考える」が,わたしのクセ (カラダ) になっている。
    わたしにとって,この二つは「因果」でつなぐのみである。
    根拠は?
    「実感」である。

    いまのわたしに,ブルバキ数学原論の内容は,「再現できるフレーズが一つもない」の意味で,すなわち「すっかり忘れた」の意味で,残っていない。
    しかし,「何に対しても構造で見る・考える」をするカラダが,ここにある。
    そしてこのカラダをつくったのは,ブルバキ数学原論の内容の勉強である。

    翻って,わたしは,内容を忘れるためにブルバキ数学原論を勉強したことになる。
    「忘れる」が,カラダづくりに必要なフェーズであった。
    忘れなかったら,逆におかしなことになっているはずである。

    ブルバキ数学原論の勉強は,勉強した内容を忘れていることを以て「無駄」となるのではない。
    勉強した内容を忘れていることを以て,「必要な迂遠プロセスの実現──目的達成」となるのである。