Up 「学校数学=形式陶冶」の謂う「形式」: 要旨 作成: 2013-09-12
更新: 2013-10-01


    数学の勉強は,その数学の出自になる形式の勉強である。
    そしてこの形式は,自分に届くものになる。
    この一局の勉強経験は,続いて「堆積と風化」「無用の用」のプロセスの中に入っていく。
    これが勉強経験ごとに起こって,より高次の形式が自分に届くカラダがつくられていく。

    このレベルの「形式」が,本論考の主題になる「形式」,即ち「学校数学=形式陶冶」の謂う「形式」である。
    しかし,この「形式」は,もはや記述するものにならない。
    ただし,「対象性そのものが立たない」が,根本の理由である。
    「形式」の記述は,「対象性そのものが立たない」の論述に代えることになる。

     註 : 本論考をその一部とする全体論考は,「学校数学の勉強は何のため?」に対し,「学校数学=形式陶冶」を立てて,「得は,形式」を答えにしようとするものである。 このとき,「得は,形式」を言うことは,つぎを言うことである:
      学校数学を勉強すると,
       これこれの形式が自分に届くようになる。