Up 「内」を退ける理由 作成: 2013-09-12
更新: 2013-09-12


    本論考は「形式」を,カラダの内なるものではなく,カラダとの外なるものとした。
    退けたのは,つぎの考え方である:
      カラダの内なる形式が,外界をその形式に収める。
      形式陶冶は,内なる形式づくりである。
    そして,つぎの立場に立つとした:
      カラダは,外なる形式に対し同調・受容・反応する。
      形式陶冶は,外なる形式に対し同調・受容・反応するカラダづくりである。

    カラダが外なる形式の同調・受容・反応器である状態は,「内なる形式」とどう違うのか?
    構えでいうと,受動と能動である。
    「外界の形式が自分に届く」と「外界を自分の形式に押し込む」である。

    西洋思想・哲学は,印象として,「内を択る」である。
    東洋思想・哲学は,印象として,「外を択る」である。
    本論考は,外を択る。

    「内」を退ける理由は,つぎのようになる:
    1. ここで「カラダ」をいうとき,それはとりわけ,位相変化する神経細胞のネットワークであるが,これに「内なる形式」を対応させることは,観念的に対応を想念する以上のことをするわけではない。「内なる形式」は,Wittgenstein の謂う「空回りする歯車」である。──何も機能していない。
    2. 「成長」「熟達」は,「外界の形式がだんだんと自分に届くようになる」の解釈が素直。