Up | 「外なる形式が自分に届く」の存在論 | 作成: 2013-09-16 更新: 2013-09-16 |
本論考は,これの立論である。 「内なる形式」の場合,「外界の捉え」はつぎの図式になる:
そこで,「外界の捉え」は,つぎの2つの図式のいずれかになる:
いずれの図式にも,回りくどさがある。 回りくどさをつくっているのは,「内なる形式」である。 「内なる形式」は,Wittgenstein の謂う「空回りする歯車」になっていて,何も機能していない。 即ち,二つの図式は,どちらもつぎのように言っているのと同じである:
そしてこのように言うとき,外界は,<カラダに対し「形式」を示す潜在性>ということになる。 したがって,さらに,つぎのように言っているのと同じである:
「カラダをもつとは,外界の形式が自分に届くこと」は,メカニズムのことばで説明できるものではない。 「カラダをもつとは,外界の形式が自分に届くこと」の存在論は,メカニズムのことばを用いるものにはならない。 実際,これをメカニズムのことばで記述しようとするとき自ずと考え出されてくるもの,それが「内なる形式」である。 ──「内なる形式」は,「メカニズム」の視点からの説明概念としてつくられるものである。 |