Up 「外なる形式が自分に届く」の存在論 作成: 2013-09-16
更新: 2013-09-16


    「外なる形式」の存在論は,「カラダをもつとは,外界の形式が自分に届くこと」の存在論である。
    本論考は,これの立論である。


    「内なる形式」の場合,「外界の捉え」はつぎの図式になる:
      内なる形式は,外界に対するフィルタとして機能する。
      外界は,この内なる形式を通過する。
      内なる形式を通過したものが,自分の捉えた外界である。
    ところで,内なる形式は,無数存在する。
    そこで,「外界の捉え」は,つぎの2つの図式のいずれかになる:
     A. 内なる形式は,個々に,外界に対して覚醒している。
    ある外界に対し,これに反応する内なる形式がある。
    外界は,この内なる形式を通過する。
    内なる形式を通過したものが,自分の捉えた外界である。
     B. つぎの機能をもつ内なる装置がある:
     《外界を捉えるために使用する内なる形式を,選択・発動する》
    外界に対し,これを捉えるために使用する内なる形式を,この装置が選択・発動する。
    外界は,この内なる形式を通過する。
    内なる形式を通過したものが,自分の捉えた外界である。

    いずれの図式にも,回りくどさがある。
    回りくどさをつくっているのは,「内なる形式」である。
    「内なる形式」は,Wittgenstein の謂う「空回りする歯車」になっていて,何も機能していない。
    即ち,二つの図式は,どちらもつぎのように言っているのと同じである:
      カラダは,外界を捉える。
      外界がどのように捉えられるかは,カラダ依存である。
      このカラダ依存を表現する言い回しが,「形式」である。

    そしてこのように言うとき,外界は,<カラダに対し「形式」を示す潜在性>ということになる。
    したがって,さらに,つぎのように言っているのと同じである:
      カラダは,外界の形式を捉える。
    あるいは,
      カラダをもつとは,外界の形式が自分に届くことである。


    「カラダをもつとは,外界の形式が自分に届くこと」は,メカニズムのことばで説明できるものではない。
    「カラダをもつとは,外界の形式が自分に届くこと」の存在論は,メカニズムのことばを用いるものにはならない。

    実際,これをメカニズムのことばで記述しようとするとき自ずと考え出されてくるもの,それが「内なる形式」である。 ──「内なる形式」は,「メカニズム」の視点からの説明概念としてつくられるものである。