Up 「形式陶冶」の語用の類型 作成: 2013-06-11
更新: 2013-07-03


    「形式陶冶」は,あいまいな概念である。
    実際,このことばの機能は,<勉強>の不可知さをひとまず思念の対象として保持しておくことである──思念の対象から外し捨ててしまうのではなく。 あいまいであることは,このことばの欠陥ではなく,機能性である。

    学校数学は何のため?」への答えには,生徒の側からの「学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」への答えが含まれる。 そしてすべての生徒に「学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答え得るその得は,「形式」のほかにはない。
    どうしてか?
    すべての生徒が対象であるとき,「数学が得である」と答えることはできない。 そうでない生徒が,現前しているからである。 得を答えるとき,その得は数学以外のものである。 そして「形式」が,このときひとが思念できる「数学以外のもの」である。

    こうして,すべての生徒に「学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答えるスタンスを択ぶ者は,「学校数学は何のため?」の答えの中に「形式陶冶」を必ず含めることになる者である。
    本論考は,すべての生徒に「学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答えるスタンスが択ばれることを前提にする。
    よって,つぎのようになる:
      学校数学は何のため?」の答えをつくろうとする者は,
       だれでも,「形式陶冶」を答えの一項にする。

    このときの人による違いは,「形式」の考え方,「学校数学の勉強」の考え方の違いである。
    ここに「人様々」を想定することになる。
    よって,「形式」「学校数学の勉強」に対する自身の捉え方を立てるとは,この人様々から画定するふうに自身の捉え方を立てるということである。
    そこで,以下,《「様々」の類型を立てる》という形で,「様々」の余地を押さえていくことにする。


    『「学校数学は何のため?」の答えの構造』において,「学校数学は何のため?」への答えをつぎの構造で捉えるということをしてきた:
      1. xはX1 を勉強する
      2. xはX2 を身につける
      3. xはX3 を行動する
      4. yはYを得る
    このとき,構造のつぎの部分が,形式陶冶の文脈になる:
      1. xはX1 を勉強する
      2. xはX2 を身につける
      3. xはX3 を行動する
    さらに,「形式陶冶」の概念のあいまいさのもとでは,「身につける」と「行動する」の区分は機能しない。 ──実際,「身につける」の表現は,「身につける」を「行動する」に代える形の操作的表現になる。
    こうして,つぎが,「xにおける形式陶冶」の文脈になる:
      1. 1 を勉強する
      2. 2 を身につける

    「形式」は,このX1,X2に配されるものである。
    組み合わせは,つぎの4通りになる (「?」は「形式」以外):
2
形式
1 形式 形式 - 形式
(形式直接陶冶主義)
形式 - ?
(形式教材主義)
? - 形式
(形式間接陶冶主義)
? - ?
    学校数学は何のため?」では,つぎに「数学」を「?」に配する:
2
形式 数学
1 形式 形式 - 形式
(形式直接陶冶主義)
形式 - 数学
(形式教材主義)
数学 数学 - 形式
(形式間接陶冶主義)
数学 - 数学
(数学実用主義)
    ここで,「形式教材主義」の「形式 - 数学」は無意味な組み合わせである。 よってこれを組み合わせ表から外す:
2
形式 数学
1 形式 形式 - 形式
(形式直接陶冶主義)
───
数学 数学 - 形式
(形式間接陶冶主義)
数学 - 数学
(数学実用主義)

    そして最後のステップとして,すべての生徒に対する「学校数学の勉強は,あなたに得がある」の答えとなるものかどうかを,これらに見ていく。
    このとき,数学実用主義が消えて,「形式陶冶」の2類型 (形式直接陶冶主義と形式間接陶冶主義) が残ることになる。


    「形式陶冶」は,「形式直接陶冶主義:形式 - 形式」と「形式間接陶冶主義:数学 - 形式」の2類型ということになったが,これは「形式陶冶」の意味が2通りということではない。 この2類型に,「形式」に対する解釈の多様性が重なる。
    「数学実用主義:数学 - 数学」も同様である。──「数学」に対する解釈の多様性が重なる。

     例: 学校数学をリードしてきているところの
      「数学的考え方」→「数学的問題解決」→「数学的リテラシー」
    の流れは,類型としては,「形式直接陶冶主義」である。
    一方,テーマを「数学的考え方」,「数学的問題解決」,「数学的リテラシー」とリセットすることで,「形式」の解釈のいろいろを示してくる。


    本論考が立てる「学校数学=形式陶冶 」の「形式陶冶」は,類型としては「形式間接陶冶主義」である:
      「数学を教える;これは形式を得させることである」
    ただし,「数学を教える」「形式」につぎの独自の解釈が施される:
    • 学校数学の「数学を教える」は,<何でもあり>であり,<数学を教える>とはならない。
    • 形式は,<風化造形>である。