Up 「実質陶冶」 作成: 2013-06-11
更新: 2013-06-14


    「形式陶冶-対-実質陶冶」の対立図式が立てられることがある。
    このとき,「実質陶冶」は「形式陶冶」の反対語である。
    「実質陶冶」の意味は,「形式陶冶の反対」である。

    このような「実質陶冶」のことばが出てくるのは,二つの場合である。

    一つは,「形式陶冶」にアンチテーゼが立てられる場合である。
    アンチテーゼの表現は「形式陶冶の反対」であり,それは「実質陶冶」である。

    もう一つは,<数学を教える>にアンチテーゼが立てられる場合である。
    このときのアンチテーゼは,「形式陶冶」である。
    翻って,<数学を教える>は「形式陶冶の反対」になる──「実質陶冶」になる。

     例1: 「形式陶冶論争」では,「形式陶冶」が批判されるものになった。「形式陶冶を唱えれば,学校数学は何でもありになる」が批判のことばである。 これは「形式陶冶」のアンチテーゼとして「実質陶冶」が立てられる例になっている。
    「ペリー運動」も,これと同型である。
    <専ら形式陶冶で合理化されるもの>として批判されたのは,この場合「ユークリッド原論中心の論証専一」である。 そしてこれのアンチテーゼになったのが「有用数学」である。

     例2: 「数学実用主義」は,いまの学校数学では保てない立場である。
    実際,「学校数学の勉強にどんな得がある?」の問いは「勉強する者にひとしく得がある;その得は?」であるが,「数学実用主義」はこれの答えにはならない。
    この「数学実用主義」のアンチテーゼは,「形式陶冶」である。
    翻って,「数学実用主義」は「形式陶冶の反対」になる──「実質陶冶」になる。


    ところで,「形式」と「実質」は,本来,相補概念である。
    対立概念ではない。
    「形式陶冶-対-実質陶冶」の対立図式が立てられるのは,状況が<振り子が一方の極に大きく振れている>の場合である。
    「形式陶冶-対-実質陶冶」の対立図式は,この状況に反発して,いまの極から反対の極に飛躍しようとする様である。 ──実際のところ,問題状況の構造化に失敗している様である。

      学校教育は,二つの極の間の振り子運動を現す。
      極端になるとき,別の極への揺り戻しの力が起こる。
      振り子運動は一つではなく,いろいろある。
      学校数学は,いろいろな振り子運動の複合である。
      そして,「形式陶冶-対-実質陶冶」は,このいろいろな振り子運動のうちの一つである。