Up はじめに 作成: 2013-06-27
更新: 2013-07-09


    本論考は,全体論考の一モジュールとしてとしてつくるものである。
    全体論考は,「学校数学」の意味の論考である。

    「学校数学」の意味の論考は,論考の趣意を外さないために,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりに代えている。
    ただし,「学校数学は何のため?」の問いだと,まだ広く漠然としている。
    そこで,生徒の側からの「学校数学の勉強は何のため?」の問いに対する答えづくりに限定する。
    この問いは,「学校数学の勉強は自分にとって何のため?」である。
    そしてこの答えは,すべての生徒に学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答えるものである。

    これらの限定は,「学校数学は何のため?」の部分的な論考に入るということではない。
    問題の核心に近いところから論考に入るということである。
    特に,問題の一般性ないし本質を失するものではない。


    本論考の主題は,「学校数学は何のため?」の答えの構造の捉えである。
    これを,すべての生徒に対する「学校数学の勉強は,あなたに得がある」の答えの構造の捉えにまで進める。

    本論考のねらいは,学校数学が「形式陶冶」として立つのみであることを,構造の導くところとして説明することである。
    併せて,「形式陶冶」論の形を確定する。

    即ち,「形式陶冶」の理論構築は,つぎの二タイプになる:
    1. 「学校数学」を定めて,これに応ずる「形式」を保留にする
    2. 「形式」を定めて,これに応ずる「学校数学」を保留にする
    Aは,「学校数学」を数学に定める。
    「形式」として,いくつかの精神的資質を挙げる。
    「数学 → 精神」の因果律は,不可知として棚上げにする。
    Bは,「形式」を「生きて働く力」に定める。
    「学校数学」を,「生きて働く力」単元の構成と定める。
    「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) は,棚上げにする。

    A,Bの導出は論理的なものであるが,これが現前と対応していることは,事例との照合から確認される。
    本論考は,簡単にではあるが,このことも行う。