Up | 「形式陶冶説批判」 | 作成: 2013-07-08 更新: 2013-07-28 |
これは,形式関接陶冶主義 (数学→形式) に対する批判である。 先ず,この点をはっきり確認しておく必要がある。 なぜかというと,「形式陶冶説批判」というと長田新の名前が最初に登場するのであるが,長田新の形式陶冶説批判は,形式関接陶冶主義 (数学→形式) に対する批判にはなっていなくて,形式直接陶冶主義 (形式→形式) に対する批判ということになるからである:
例えば,「数学的問題解決」は,形式直接陶冶主義 (形式→形式) であり,<作用主ー作用>として「問題解決能力が問題解決をする」を立てる。 そして,学校数学を「問題解決能力の直接陶冶」に構成しようとする。 長田新が「形式陶冶説批判」として批判しているのは,この発想の仕方である。
「形式陶冶説批判」が形式関接陶冶主義 (数学→形式) に対する批判であることを確認したところで,「形式陶冶説批判」がどんな批判になるかを,ここで押さえておく。 この批判は,つぎの2タイプである:
長田新は,F1 をやっているつもりで,「形式直接陶冶主義は誤り」を論じた。 本論考は,F1 タイプの批判は方法が無いと見る。 実際,形式関接陶冶主義が,本論考の立場である。 また,F1をどう済ませようとも,学校数学が「形式陶冶」に寄り掛からずには立たないことを認めねばならない。 そこで,「形式陶冶説批判」は,F2 の形に収まっていくことになる。 即ち,つぎの小倉金之助の言のようになる:
そもそも F2 は,「形式陶冶説批判」になる以前に,<何でもあり>批判になるべきものである。 即ち,つぎが批判の言い方になる:
数学は,こういうふうに教えるものだ。」 しかし,「形式陶冶説批判」と併せて提起された学校数学は,つぎのものである:
そして,そうなった学校数学は,「何をどう教えるか」を棚上げにするのが定めである。 (「形式」を定め「学校数学」を保留に) 「数学とはこういうふうに教えるものだ」の形の批判が現れなかったのは,なぜか? 「数学とはこういうふうに教えるものだ」の概念が持たれなかったため,ということになる。 実際,「数学とはこういうふうに教えるものだ」の概念が持たれないのは,数学教育界の傾向性というべきものである。 この傾向性は,1960年代の「数学教育現代化」で,特にはっきりと観察されるものになる。 ──「数学教育現代化」は,「数学とはこういうふうに教えるものだ」が無くて,数学を教えようとした。 数学から数学教育に入る者は,「数学とはこういうふうに教えるものだ」の「教える」が抜ける。 教育から数学教育に入る者は,「数学とはこういうふうに教えるものだ」の「数学」が抜ける。 これは構造的必然であり,致し方ないことである。
長田新 (1919a),「形式陶冶論の吟味」
─── (1919b),「教育上からみたる純正数学と実用数学との争」
─── (1923), 「形式陶冶ニ関スル最近ノ論争」
学校教育, 第118号, 1923 ─── (1925), 『形式的陶冶の研究』 小倉金之助 (1919),「理論数学と実用数学との交渉」
─── (1923),「数学教育ノ意義」
─── (1924), 『数学教育の根本問題』
─── (1925),「数学教育改造の基調」
─── (1932),「数学教育進展ノ為メニ」
林鶴一 (1924), 「開会ノ辞」 國枝元治(1924), 「数学教育雑感」 角達介(1924), 「現今数学教授ニ於ケル諸問題」
中谷太郎 (1972), 「日本数学教育史 7,8」
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