Up | 不如意,術・道,境地・形(かた) | 作成: 2012-04-18 更新: 2012-04-18 |
いろいろな切り口があるが,《自分が不如意になるところのもの》が一つの切り口になる。 実際,自分が如意のものは,あたりまえの・ふつうものとして,<興味・関心>の対象にならない。 ひとは,《自分が不如意になるところのもの》を,自ら進んで求めていることになる。 翻って,《自分が不如意になるところのもの》をもつことが,ひとの<成長する・生きる>の形になっている。 ひとの生き方のパターンの一つが,《自分の不如意を見出すことになるものを求める》である。 数学/けん玉は,ひとが自分の不如意を見出すことになるものである。 数学を,《自分が不如意になるところのもの》としてもつ者がいる。 けん玉を,《自分が不如意になるところのもの》としてもつ者がいる。 数学とけん玉は,《自分が不如意になるところのもの》として,同型である。 不如意に対し,ひとはこれの克服に取り組む。 克服の取り組みは,「修行」になる。 修行は,不如意の対象を,「術・道」にする。 ──ここで「術・道」とは,「武術・武道」というときの「術・道」である。 ひとは,数学/けん玉に取り組む。 この取り組みは,「修行」の様相になる。 数学を,術・道にする者がいる。 けん玉を,術・道にする者がいる (いてよい)。 数学/けん玉は,「術・道」になっていく。 数学とけん玉は,術・道として,同型である。 術・道の修行は,「境地」というものを現すようになる。 境地は,「形(かた)」に表現される。 数学で,境地・形(かた) の現れを観ずる者がいる。 けん玉で,境地・形(かた) の現れを観ずる者がいる (いてよい)。 数学とけん玉は,境地・形(かた) に到達するものとして,同型である。 「形(かた)」の要点は,「見えない」ことである。 修業の境地は,この見えないものを「観る」である。 実際,どの修業も,「形(かた) に行き着く」を様相としていくことになる。 |