Up 要 旨 作成: 2013-07-14
更新: 2013-07-16


    (1) 「形式」に対する「一般性」の見方

    「形式」は,「一般形式」のように想念される。
    しかし,「一般形式」の概念は,妥当なものなのか?
    そこで,この「一般」の意味に立ち返ってみる。
    「形式」に「一般」が冠せられる理由は何かと,改めて考えてみる。

    経験は,特個の経験である。
    「形式」は,特個が抜けた相である。
    「一般形式」の言い回しに示されていることは,この相が「一般」のように見えるということである。

    しかし,「特個が抜ける」は,「一般」とイコールではない。
    「一般形式」の概念には,「一般」の意味に対する思考停止がある。
    翻って,この思考停止を停止し,「一般」の意味の探求に入ることは,「形式」の実体論の一つの形になるものである。


    (2) 「形式」に対する「社会性」の見方

    学校数学に対する「形式陶冶」の解釈は,「形式」を学校数学のいちばんの大事と定めていることになる。
    実際,このとき「形式」は,<個>そのものと見られている。
    「人格」「個性」「為人(ひととなり)」の実体概念化というものになっている。

    こういうわけで,「形式陶冶」は「人づくり」である。
    そして,「人づくり」を言うとき,「社会性」が「人」の要素の一つに挙げられることになる。
    <人=社会成員>のとらえの上に,つぎの問いが立てられる:
      <人=社会成員>の実現に,学校数学の勉強はどのように関わるか?

    答え方1

    成長は,社会が環境である。
    成長環境が社会であることは,経験が個同士で自ずと似ることである。
    ──この「経験」に,「学校数学の勉強」も含まれる。
    そして,「個同士で経験が似る」には,「個同士で形式が似る」が応ずる。
    この「類似の形式」の総体が,「社会性」である。

    答え方2
    これは,タイプ1の内容をさらに限定する答え方である。

    まず,学校数学の勉強を,言語の勉強に含める。
    そして,「言語を身につけることは,社会成員の様式を身につけることである」とする。
    この言明の根拠は,つぎの事実である:
      社会成員は,その社会に独特な論理──高度な論理──を扱う者である。
      この高度な論理が,言語の中に実現されている。
      人は,言語の習得によって,ひとりでに高度な論理を扱う者になる。
      ──<論理を知らないで,高度な論理を扱う>者になる。

    そして,つぎがこの論法の要点である:
      社会性の獲得は,暗黙的レベルで進行する/進行し得る


    (3) 「形式」に対する「生きて働く力」の見方