Up 「形式」に対する「社会性」の見方 作成: 2009-04-19
更新: 2013-07-16


    学校数学に対する「形式陶冶」の解釈は,「形式」を学校数学のゴール── 一般に,成長のゴール──に定めていることになる。
    これは,「形式」にいちばん大事を見ているということである。

    実際,このとき「形式」は,<個>そのものと見られている。
    「人格」「個性」「為人(ひととなり)」の実体概念化というものになっている。
    「形式」にいちばんの大事が措かれるのは,これが<個>そのものだからである。

    こういうわけで,「形式陶冶」は「人づくり」である。
    そして,「人づくり」を言うとき,「社会性」が「人」の要素の一つに挙げられることになる。
    <人=社会成員>のとらえの上に,つぎの問いが立てられる:
      <人=社会成員>の実現に,学校数学の勉強はどのように関わるか?

    この問いに対する答え方に,いろいろはない。
    おおよそ,つぎに示す二通りである。

    タイプ1

    成長は,社会が環境である。
    成長環境が社会であることは,経験が個同士で自ずと似ることである。
    ──この「経験」に,「学校数学の勉強」も含まれる。
    そして,「個同士で経験が似る」には,「個同士で形式が似る」が応ずる。
    この「類似の形式」の総体が,「社会性」である。

    タイプ2
    これは,タイプ1の内容をさらに限定する答え方である。

    まず,学校数学の勉強を,言語の勉強に含める。
    そして,「言語は社会的言語である」と定める。
    つぎが,これの意味である:
      言語を身につけることは,社会成員の様式を身につけることである

    この言明の根拠は,つぎの事実である:
      社会成員は,その社会に独特な論理──高度な論理──を扱う者である。
      この高度な論理が,言語の中に実現されている。
      人は,言語の習得によって,ひとりでに高度な論理を扱う者になる。
      ──<論理を知らないで,高度な論理を扱う>者になる。

    そして,つぎがこの論法の要点である:
      社会性の獲得は,暗黙的レベルで進行する/進行し得る