Up 「形式」に対する「生きて働く力」の見方 作成: 2012-04-18
更新: 2012-04-18


    学校で,数学を勉強した。
    その内容のほとんどは,使うことがない。
    このとき,「数学の勉強は何のため?」と言いたくなる。

    しかし,学校の数学の勉強は,<使う>があるから行うのか?
    <使う>は,勉強の条件なのか?

    ここで,人はどんなことにいっしょうけんめい取り組むのかを,あらためて見てみる。
    たとえば,スポーツ競技。
    スポーツ競技への取り組みは,<使う>をこの先に展望しているのか?
    展望していない。

    学校の数学の勉強も,これに同じと見られないか?
    すなわち,数学の勉強は,数学を使うためではない。
    本論考は,このことを考えてみる。

    また,「学校の数学の勉強も,これに同じと見られないか?」の「これ」として,けん玉を考えることにする。
    なぜけん玉か?
    けん玉は,<使う>を考えないことの明らかなものだからである。
    数学の勉強とけん玉の同型を示せる程に,「数学の勉強は,数学を使うためではない」を示せたことになる。

    こうして,本論考はつぎが標題になる:
      『『数学の勉強とけん玉はどこまで同型か?
        ──「使うために勉強するのではない」論 』

    術の修行においては,その術の「使う」は展望されていない。
    修行は,「術をこの先使う/使わない」でてやってはいない。

    「使う」は,どこから来るのか?
    術に対し,これの産業が起こる。
    そしてこの中で,特に,術を「使う」業態が出てくる。
    このようにして,術に対し「使う」が起こる。

    特に,数学に対し「使う」が起こる。
    けん玉に対しても,「使う」が起こってもよい。
    数学とけん玉は,「使う」が起こるものとして,同型である。

    強調するが,術があって術産業がある。そして,術産業があって「使う」がある。 この順番である。
    そこで,術産業での「使う」の存在を以て「術は,使うためものである」を言うのは,先後の取り違いであり,間違いである。
    「使う」は,術の条件ではない

    特に,「使う」は,数学の条件ではない。
    「使う」は,けん玉の条件ではない。
    数学とけん玉は,「使う」を条件にしないものとして,同型である。

    術として数学とけん玉を比べるとき,違いとして挙げられるものの一つが,「術が起こす産業・経済」の規模である。
    数学と比べるとき,けん玉は無に等しい。

    例えば,IT産業は,数学が使われる分野であり,「数学が起こす産業・経済」の一つである。
    学校,出版業は,数学がデモンストレーションされる分野であり,「数学が起こす産業・経済」の一つである。

    本論考は,数学とけん玉の対比を,「<使う>無しの修行」モデルで行う。

    しかし,数学の勉強は,「<使う>無しの修行」として考え得るのか?
    それは,どのような場合か?

    数学の勉強に「数学を使う」を結びつけるのは,数学の産業の現前をアタリマエの風景にしているためである。
    そこで,数学の産業がない場所を考える。
    砂漠の真ん中でもよいし,哲学の部屋でもよい。
    その場所で,数学の勉強は起こるか?
    起こるとき,それは「<使う>無しの修行」である。
    そして本論考は,「起こる」を立場にしようというわけである。