Up 要 旨 作成: 2009-11-16
更新: 2012-12-13


    数学の授業を受ける生徒から出てくる「数学の勉強は何のため?」は,「勉強させられている数学は使わない;数学の勉強は何のため?」である。

    日常語の「使わない」は,「自分にとって,ためにはならない」になる。
    勉強させられている数学は使わない;数学の勉強は何のため?」には,「自分にとって,ためにはならない」の疑念がある。

    さらに,日常語の「自分にとって,ためにはならない」は,「自分には,要らない」になる。
    「数学の勉強」は,勉強したことを「使わない」から,「自分にとって,ためにはならない」,よって「自分には,要らない」となる。


    ひとは,「使う・ためになる・要る」を,わかったつもりでいる。
    日常語である「使う・ためになる・要る」のことばが,そうさせるのである。

    「使う・ためになる・要る」を日常語の意味で使うとき,根本的に必要なものは「使わない・ためにならない・要らない」になってしまう。
    「数学の勉強」は,この根本的に必要なものに類する。
    そして,「使わない・ためにならない・要らない」になってしまう。

    「使わない・ためにならない・要らない」を言わせているものは,《数学=道具》の考えである。
    《数学=道具》を退けるとき,「数学の勉強」は「使う・ためになる・要る」ものになる。
    本論考は,この論法を開発しようとする。
    この論法が,「数学の勉強は何のため?」の問いに対する本論考の答えになる。

    《道具》を退ける論法として,本論考はつぎの二タイプを用いる:
    • 「食事・運動」のメタファ
    • 「無用の用」


    では,「数学の勉強」の「使う・ためになる・要る」とは何か?
    「使う・ためになる・要る」に対し実体概念を立てるとすれば,それは何か?
    本論考は,「形式」であるとする。

    ただし,「形式」の論考は,難題である。
    これは「○○の力」の実体論に簡単に陥る。
    実体論は,実感から離れていく。

    実際,ことばを使うとは,実体論 (表象主義/合理主義) をやることである。
    ことばとはそういうものである。
    「形式」の論述は,最初から矛盾である:
    • 論述は,表象主義/合理主義になる。
    • 「形式」は,表象主義/合理主義では論述できない。