Up 「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」 作成: 2008-10-06
更新: 2013-07-16


    「堆積と風化」のアナロジー/メタファを,カラダの出来事に求めてみる。
    「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」が,挙げられる。

    つぎが,「堆積・風化」「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」の含蓄である:
      堆積は風化と対になる──即ち,堆積はこれに風化が続いて一段落する。
      食事は消化と対になる──即ち,食事はこれに消化が続いて一段落する。
      運動は休息と対になる──即ち,運動はこれに休息が続いて一段落する。
      覚醒は風化と対になる──即ち,覚醒はこれに風化が続いて一段落する。

    「一段落」とは,成長の「一段落」のことである。
    「堆積と風化」は,「上昇と下降」ではない。
    全体で,一つの工程の完成である。

    「堆積」「食事」「運動」「覚醒」は,つぎのようには述べられない:
      この堆積は,結果がこの地形である。
      この食事は,結果がカラダのこの機能 (形) である。
      この運動は,結果がカラダのこの機能 (形) である。
      この覚醒は,結果がカラダのこの機能 (形) である。

    「堆積」(「食事」「運動」「覚醒」) と「堆積・風化」(「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」) でつくり出される形は,因果で直接つながる関係にはない。 そして,両者はまったく別次元のものである。
    この造形は,ことばにできない。
    「この造形はことばにできない」の意味は,第一に,「この造形をことばにしようとすることは,ことばの役割の逸脱」である。

    「役割の逸脱」とはどういうことか?
    箸の役割は,「これを用いて食べる」である。
    車の役割は,「これを用いて移動する」である。
    箸を用いて移動しようとするのは,箸の役割の逸脱である。
    それはできないことである。

    ここで本論考は,「ことばの役割の逸脱」を Wittgenstein (特に,『哲学探求』) に倣って論じている。
    「ことばの役割の逸脱」は,表象主義を退ける論法である。
    この立場につくことは,「語りえぬものについては,沈黙しなければならない」である。

    こうして,「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」でつくり出される形として言いうることは,「よいカラダ」「強いカラダ」の他ではない。
    特に,「学校数学=形式陶冶」とするときの「形式」として言いうることは,「よいカラダ」「強いカラダ」の他ではない。