Up | 要 旨 | 作成: 2013-07-14 更新: 2013-07-16 |
ただしこの主題化の意味は,「実体的説明を示す」(これは不可能である) ではなく,「実体的説明とは何かを論じる」である。 ──実体的説明とは何かを論じる中で,実体的説明が不可能であるとはどういうことかも示されてくる。 本論考は,「形式」をつぎの成長モデルで考えようとする:
(1) 成長は,「堆積と風化」 風化造形は,直接造形できない。 堆積と風化という迂遠を通して,造形になる。 この「堆積と風化」に「形式陶冶」を重ね合わせる。 「勉強」は「堆積」のプロセスであり,これの「風化」として現れてくるものが「形式」である。 学校数学の勉強の得は,形式である。 形式は直接得られない。 学校数学の勉強という迂遠を通して得るのみである。 「学校数学は何のため?」の答えの要諦は,この「迂遠」の理解である。 この「迂遠」を理解することが,「学校数学は何のため?」の問いを収めることである。 (2)「堆積と風化」のカラダアナロジー 地形メタファ「堆積と風化」に対応するカラダアナロジーとして,「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」を挙げる。 つぎが,「堆積・風化」「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」の含蓄である:
「一段落」とは,成長の「一段落」のことである。 「堆積と風化」は,「上昇と下降」ではない。 全体で,一つの工程の完成である。 「堆積」「食事」「運動」「覚醒」は,つぎのようには述べられない:
「堆積」(「食事」「運動」「覚醒」) と「堆積・風化」(「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」) でつくり出される形は,因果で直接つながる関係にはない。 そして,両者はまったく別次元のものである。 この造形は,ことばにできない。 こうして,「食事・消化」「運動・休息」「覚醒・睡眠」でつくり出される形として言いうることは,「よいカラダ」「強いカラダ」の他ではない。 特に,「学校数学=形式陶冶」とするときの「形式」として言いうることは,「よいカラダ」「強いカラダ」の他ではない。 |