Up 全体論考の中の,本論考の位置 作成: 2013-07-13
更新: 2013-07-13


    本論考は,全体論考の一モジュールとしてとしてつくるものである。
    全体論考は,「学校数学」の意味の論考である。

    「学校数学」の意味の論考は,論考の趣意を外さないために,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりに代える。
    ここで,「学校数学は何のため?」は,つぎがこれの言い換えになるものである:
      現前の学校数学からは,何が得られるか?

    対して,つぎの意味に受け取るものではない
      学校数学には目的がある。
       学校数学は,その目的に拠って立つものである。
       この目的を示すことが,「何のため?」に答えることである。
    実際,学校数学は,いま在る者にとって,所与である。
    これは,一つの生態系として現前している。
    生態系は,目的に拠って立つものでない。
    学校数学は,これを所与とする者にとって,目的に拠って立つものでない。
    ──このことを,『「学校数学=生態系」論』で論じた。


    学校数学は何のため?」すなわち「現前の学校数学からは,何が得られるか?」の答えは,多様なものになる。
    この多様性の捉えを,『「学校数学は何のため?」の答えの構造』で行った。
    多様性を<多様性の構造>から導くというのが,『「学校数学は何のため?」の答えの構造』の趣旨である。


    現前は,「誰にどんな得」の多様性を現す。
    しかし,根本は,「勉強する者すべてにどんな得」である。
    組織の論理が立てる「得」を一方に見つつ,この根本を見据えるとき,「学校数学は「形式陶冶」として立つのみ」となる。
    『学校数学は「形式陶冶」として立つのみ』は,これを論じた。

    『学校数学は「形式陶冶」として立つのみ』は,併せてつぎのことを示した:
      「形式陶冶」の立論は,立場は2通りになる。
      そしてそれぞれが,不明を伴う。
    即ち,「形式陶冶」を立てることは「学校数学を勉強する」と「形式を得る」の間の因果律を立てることであるが,因果律は「学校数学」と「形式」の同定が先決問題になる。 そして理論構築は,このときつぎの二つの立場に分かれる:
    1. 「学校数学」を定めて,これに応ずる「形式」を保留にする
    2. 「形式」を定めて,これに応ずる「学校数学」を保留にする

    Aは,「学校数学」を数学に定める。
    「形式」として,いくつかの精神的資質を挙げる。
    「数学 → 精神」の因果律は,不可知として棚上げにする。
    Bは,「形式」を「生きて働く力」に定める。
    「学校数学」を,「生きて働く力」単元の構成と定める。
    「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) は,棚上げにする。

    Aは,「形式」の「何でもあり」論に陥る/陥りやすい。
    Bは,「学校数学」の「何でもあり」論に陥る/陥りやすい。
    また,Bによる学校数学の主導は,「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) の棚上げが「学校現場への丸投げ」になるので,必然的に「学力低下」の社会問題を招く。


    本論考『「形式陶冶」の成長モデル──「堆積と風化」』は,『学校数学は「形式陶冶」として立つのみ』で要約的に論じられたA,Bの特性のうち,Aについて論考を進める。
    ──Bの方は,『学校数学出口論の構造──出口論が学校数学をリードする理論である理由』で,論考を進める。