Up | はじめに | 作成: 2013-01-27 更新: 2013-07-14 |
全体論考は,「学校数学」の意味の論考である。 「学校数学」の意味の論考は,論考の趣意を外さないために,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりに代える。 ここで,「学校数学は何のため?」は,つぎがこれの言い換えになるものである:
「得」は,「誰にどんな得」で多様になる。 しかし根本は,「勉強する者すべてにどんな得がある」である。 翻って,「学校数学は何のため?」の立論は,「勉強する者すべてに得がある」の立論が根本である。 学校数学を「勉強する者すべてに得がある」ものとして立てようとするとき,その「得」は「数学の実用」とはできない。 「数学ではないもの」にしなければならない。 この「数学ではないもの」として,「形式」が立てられる。 こうして,「学校数学は勉強する者すべてに得がある」の「得」は,「形式」である。 「形式」とするのみである。 しかし,「形式」は実体的に立てられるものなのか? 実体的に立てるとしたとき,その方法は? 本論考は,これを主題にする。 「「形式」の方法論」が,本論考の主題である。 この論考に,当てはあるのか? 当ては,「堆積と風化」のアナロジーである。 風化造形は,直接造形できない。 堆積と風化という迂遠を通して,造形になる。 この「堆積と風化」に「形式陶冶」を重ね合わせる。 「勉強」は「堆積」のプロセスであり,これの「風化」として現れてくるものが「形式」である。 学校数学の勉強の得は,形式である。 形式は直接得られない。 学校数学の勉強という迂遠を通して得るのみである。 「学校数学は何のため?」の答えの要諦は,この「迂遠」の理解である。 この「迂遠」を理解することが,「学校数学は何のため?」の問いを収めることである。 この「迂遠」を説明できた者は,いない。 この意味で,「形式陶冶」を立論できた者は,いない。 われわれのできることは,「迂遠」のテーマの周りをグルグル回るだけである。 では,本論考は何をしようというのか? グルグル回ることと「グルグル回り」を捉えることを区別した上で,後者の「グルグル回り」の捉えをやってみようというのである。 |