Up 数学教育 対 精神発達障害 作成: 2019-04-28
更新: 2019-04-28


    個人の成長は,社会人になることである。
    個人の発達は,社会人になることである。
    「発達障害」とは,この発達の不調のことである。
    そして不調の理由を身体 physical に帰せないとき,発達障害は精神 mental に帰せられて, 「精神発達障害」となる。

    「精神発達障害」は,「社会人」の基準依存である。
    「社会人」の基準は変化する。
    この変化からドロップアウトすると, 「精神発達障害者」である。

      例えば加齢は,時代の変化についていかなくなることであるから,精神発達障害者になることである。


    数学教育は,「よき社会人」をアウトプットに立てる。
    (「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシー」‥‥‥ )
    よって,つぎが導かれることになる:
      《数学教育は,精神発達障害者検出のツールになる》

    精神発達障害者は,この数学教育から疎外される。
    ここで微妙なのは,数学向きの者には精神発達障害者が多いということである。
    数学向きの者は,かえって数学教育から疎外される。

      実際にはそこまででないのは,数学教育学者は不満だろうが,数学教育が《「よき社会人」をアウトプットに立てる》を貫徹するものに成れてないからである。


    数学向きの者に精神発達障害者が多いとは,どういうことか。

    個性としての「数学向き」の特質は,「本質直観」である。
    この「本質直観」は,「社会的コミュニケーション不能」の代償である。

    「社会的コミュニケーション不能」は,自閉症がわかりやすい例になる。
    自閉症の者は,相手からのことばの連射に堪えられない。
    ことばに応じようとすると気が狂いそうになるので,感覚遮断 shutout する。

    「社会的コミュニケーション不能」の者は,相手のことばをシャットアウトしつつ相手のことばを理解することを強いられる。
    そこで,「本質直観」となる。
    表層がだめなので深層で代償するというわけである。

    この精神障害は,不利ばかりとはならない。
    実際,「数学向き」「科学向き」と通ずるわけである。


    「数学向き」「科学向き」の特質は,「表層捨象」である。
    数学・科学は独自の言語を開発する。
    こうなるのは,社会的コミュニケーションの言語を自分の言語とすることができないからである。
    社会的コミュニケーションの言語から疎外される者だからである。


    数学教育学では,「数学教育学を科学にする!」のアピールが繰り返されてきた。
    しかし,数学教育学が科学になることはない。
    「よき社会人」から始めるものだからである。

    ちなみに,つぎの学は科学になる:
     《 「よき社会人」を信心して「数学教育学を科学にする!」をアピールする支離滅裂──これを理由づける》
    この学は,生態学の分野である。