Up おわりに 作成: 2014-09-22
更新: 2014-11-12


    本論考は,読者の目にはずいぶん雑駁に見えるだろうが,筆者のこれまでのキャリアの集大成である。
    実際,自分がこれまでつくってきた雑多な論考は,この論考に至るためのものだったのだという実感を,いま持っているところである。

    さらに,わたしは今年度終了を以て「数学教育担当」の職を退く者なので,わたしにとって本論考は,全体から「数学教育」を引いたところの, 「2章「マクロ」の存在論」である。
    この存在論に到達したことに,自分では満足している。
    到達してみればどうということのない,単純な存在論なのだが,「どうということのない,単純な」は,定めし「いい線をいってる」ということである。
    どうしてこう思うかというと,数学がこうだからである。

    「マクロ数学教育学」の方はどうかというと,この論考にこのことばが登場しそしてそれで終わり,といったものだろう。
    こういったテーマが数学教育学に馴染まないことは,この稼業を長くやってきた経験からよくわかっている。

    実際,数学教育学は,「学校数学をよくすることにつながる論考をつくる」をやるところでである。
    この土俵に立たない論考は,持って来られてもどうしようもないのである。
    そして,数学教育学は「学校数学をよくする」を指導する役回りを務める者が運営するところであるから,マクロ論 (「学校数学は是非/進歩と無縁」) が場所をわきまえないふうに出てくると,ひじょうに困ってしまう。

    科学史には,新しい学説が教会からの弾圧を受ける話がいろいろ出てくるが,この「ひじょうに困る」と同じ構図になっている。
    即ち,どんなタイプの学説が問題になるかというと,善の常識や人間中心の考え方を相対化したり無意味化するタイプのものである。
    教会は善の常識や人間中心 (「神は自分に似せて人間をつくった」) の考え方を指導することが役回りであるから,この考え方にカッコをつけるみたいな説が言い出されるのは,ひじょうに困る。
    そして,「善の常識や人間中心の考え方で生活している人たちが混乱してしまう」の理由で,取り締まりとなる。

    以上は,マクロ論の不都合としていわば「社会的不都合」を述べてきたが,マクロ論の不都合には「個人の気分を害する不都合」もある。
    学校数学は,是非・進歩と無縁」の命題は,学校数学の向上・進歩を当然と思っている者には,気分を害するものである。
    そして,人は,自分の<生きる>は主題にしたくない。
    子ども・生徒が云々を言うくせに,自分のことは言われたくない。
    自分の<生きる>を主題にするとは,自分の営みが「自分の遺伝子を残す──その限りでの自分の保守」であるという事実と向き合うことだからである。

    翻って,マクロ学が位置づくためには,ひとがこれら「不都合」に慣れることが必要条件になる。
    経済学においてマクロ学が立っているが,このことには《不都合な法則性 (「景気の波」「ゼロ・サム」「格差拡大」等) を言われることに人が慣れっこになっている》が含まれている。 ──逆にいうと,不都合な法則性の論に寛容でない体制がいまなおあっても,不思議はない。

    よって,つぎの見方が立つなら,数学教育学にマクロ学が位置づくことは,あるかも知れない:
      経済学は不都合な法則性を受けとめることに慣れている。
       数学教育学はこれから慣れるところだ。