Up | 経済の虚構性 | 作成: 2014-10-14 更新: 2014-10-14 |
教育政策は,経済政策である。 特に,学校数学は経済に順(殉)ずるものとして立つ。 そこで,マクロ学では,「経済」がどういうものかを押さえることが,肝心なことになる。 観光地の土産物店は,無くて済むものが並んでいる。 しかし,わざわざ観光にやってきたのに何か記念に買っていかないのは,物足りない気がする。 そこで,木刀とか提灯とかキーホルダーとかを買う。 これらは,ゴミになる。 個人的生活においてインターネットで消費するものは,結局,グルメか音楽かゲームの類である。 実際,これしかない。 経済の「消費」は,これである。 無くて済むものを消費することが,経済を成り立たせることである。 「消費者は気紛れ」の言い回しがある。 <買わなくて済むものを買う>は<気紛れ>であるから,「消費者は気紛れ」はアタリマエのことを言っている。 経済は,買わなくて済むものを買う気紛れで成り立っている。 このように,経済は非常に脆い体(てい) で立っているわけである。 経済は,<買わなくて済むものを買う>が行われないと,成り立たない。 実際,<買わなくて済むものを買う>が行われなくなるのが,不況である。 ──「不況は人のふだん(ケ)の相,好況は人のまつり(ハレ)の相」 経済は,「要らない物を作って,消費者を釣る」の営みである。 経済学は,「需要・供給」を基本フレームにして自身を立てているが,「需要」は虚偽概念である。 実際,需要の計算をして間違うのが,経済の常である。 学校数学は,この経済に順(殉)ずるものとしてある。 学校数学のアウトプットは,「要らない物を作って,消費者を釣る」ができる力である。 経済的力をアウトプットとして指し示すことを,出口論で行う。 学校数学を貶める言い方のように受け取られるかも知れないが,学校数学の本質が誤解されないよう,簡潔な言い方を用いている。 「ロジックとしてこうなる」を,ただ言っているだけである。 強調するが,アウトプットを経済的力と定めることは,学校数学の前提であり,数学教育学として反省的に主題にするものではない。 マクロ学は,学校数学のこのダイナミクスを主題にする。 この場合の表題は,「経済に順(殉)ずる学校数学」である。 そしてその内容は,「経済の立っている体(てい) を (その脆さも含めて) 学校数学に写す」である。 数学教育学は「数学教育は美徳」を立場にしていることになるが,マクロ学だと,「数学教育は美徳」を立てることは「消費は美徳」を立てるのと同次元のこと,というようになる。 |