Up 「無意義」の観取 作成: 2014-07-26
更新: 2014-09-20


    学校数学は,無意義でさえある。
    「学校数学」と括られる個の営みを観察すれば,《実際の個は,場の流れに棹さしているだけ》と判じられる。

    学校数学は,個々の<生きる>が現す系である。
    (実際,つぎの節で論じるように,学校数学は一つの生態系である。)
    「意味」で立っているのではない。
    学校数学は,「意味」と無縁である。
    (これは,経済が「意味」と無縁であるのと同じである。──実際,<学校数学=生態系>は,経済の部分系と見なせる。)

    そもそも学校数学の「意味」を述べるとはどういうことか?
    学校数学を教育として理由づける形は,「形式陶冶」のみとなる。
     ( 『「学校数学=形式陶冶」の「形式」とは?』
    そこで,学校数学の「意味」を述べることは,「形式陶冶」を説明することである。
    「形式陶冶」の「形式」は,複雑系の現象である。
    一方,ひとが通常考える「形式」は,機能・用途の主語である。
    それは,「形式」の捉えとはならないし,まして「形式」とは何かの説明とはならない。


    このことの理解に,コネクショニズム・コンピュータ(註)のアナロジーが役立つ。
      註 : 甘利俊一『神経回路網モデルとコネクショニズム』 東京大学出版会, 1989.

    コンピュータに「意味」を与えるものは,プログラムである。
    通常のコンピュータはこの様式であり,フォン・ノイマン型という。

    コネクショニズム・コンピュータは,構造を人の神経回路と同じに考えた,自己学習型コンピュータである。
    情報ネットワークを自己形成する。
    このネットワークは,複雑系の現象である。

    外の観察者は,自分の目的・都合を以て,ネットワークに「意味」を与えようとする。
    しかし,ネットワークは,「意味」とは無縁である。


    数学教育の一般向けテクストは,学校数学の意味を明解に述べている。
    これは,ことば (概念) と身体的実体の対応理論 (表象主義/認知科学) を立場にしているからである。
    この立場では,身体の事態は,ことばで述べられる。
    ことばにしたものが,身体の事態の意味である。
     ( 数学的問題解決論と合理主義的オリエンテーション(2))

    しかし,身体の事態は,複雑系の現象である。
    これは,ことばとは対応していない。(ことばで記述するというものではない。)