Up 何を教えるか?」の答えは,「何でもよい 作成: 2013-08-25
更新: 2013-09-07


    「形式陶冶説批判」は,「教育改造運動」の中にある。
    「数学教育改造運動」は,学校数学の内容と教授法の改革を唱える。
    ただし,主眼は学校数学の内容変更にある。
    何を教えるか?」の問いに対しては「これを教えるべき」を答えるスタンスである。
    実際,学校数学の内容の「社会化」「実用化」が唱えられ,特に「関数・グラフ」の重要性が主張された。

    「数学教育改造運動」は,当時のユークリッド幾何学中心の学校数学を,学校数学としてふさわしいものでないと批判する。
    そして,「形式陶冶説批判」で,この学校数学の合理化に使われているロジックとして「形式陶冶」を批判する。


    一方,「形式陶冶」の立場は,つぎのものである:
      数学を学習することは,形式陶冶である
    そして,「形式陶冶」のロジックとしては,「その数学は何でもよい」となる。
    即ち,肝要は,<数学の学習>が成立することである。
    翻って,学校数学の内容と教授法は,《<数学の学習>が成立する》で条件づけられることにより定まるところとなる。

    ユークリッド幾何学中心の学校数学は,確かに「形式陶冶」のロジックで守られるものになる。
    しかし,ここが重要な点であり,そして「形式陶冶説批判」が閑却する点なのであるが,「形式陶冶」が守るのは,その学校数学が《<数学の学習>が成立する》になっているときである。
    そして,当時のユークリッド幾何学中心の学校数学は,《<数学の学習>が成立する》の条件に照らして,「形式陶冶」が守るものにならない。

    間違っているのは,「形式陶冶」ではなく,「形式陶冶」の適用の仕方である。
    当時のユークリッド幾何学中心の学校数学が「形式陶冶」で合理化されていることに対し,ここで批判することになるものは,「形式陶冶」ではなく,「形式陶冶」の適用の方である。


    「形式陶冶」は,「何を教えるか?」に対しつぎのように答える立場である:
      何でもよい──<数学の学習>が成立していれば

    よって,「形式陶冶説批判」が批判した当時のユークリッド幾何学中心の学校数学は,「形式陶冶」の立場からも失格である。
    「学校数学の現代化運動」では,ユークリッド幾何学を退け,現代数学を据えることが唱えられた。 しかしこれも,そのときどういうことが学校現場で実際に起こったかを見るとき,「形式陶冶」の立場からは失格となるものである。

    併せて,「形式陶冶」は,自ずと作用主陶冶批判である。
    なぜなら,およそ作用主陶冶主義による学校数学構築は,「形式陶冶」の条件である「<数学の学習>が成立」を犠牲にするふうになるからである。

    本論考は,「形式陶冶」を立場にする。
    そして,「<数学の学習>が犠牲にされる」を,作用主陶冶批判の形にする。
    若い頃のわたしは,「作用主陶冶は形而上学である」を作用主陶冶批判の形にしていた。
    いまのわたしは,この批判の形は批判対象に通じないものであるとしている。