Up 作用主陶冶は,学校数学の<生きる>に用いる方便 作成: 2013-08-25
更新: 2013-09-07


    本論考は,「形式陶冶」を立場にする。
    ところで,「形式陶冶」は,自ずと作用主陶冶批判である。 ──その批判の形は,「作用主陶冶主義の学校数学構築は,<数学の学習>を犠牲にするものになる」である。
    しかし,本論考は,作用主陶冶主義を退けるものではない。
    実際,作用主陶冶主義は,その社会的役割において,学校数学がつねに含み持つことになるものである。

    学校数学は,<生きる>系である。 生態系である。
    <生きる>系であるとは,<生きる>を持続させる装置を備えているということである。 系活性化の装置である。
    学校数学の場合,出口論がこれになる。

      即ち,出口を提示し,「出口実現の学習課程」を学会・行政・学校現場に課題として投げる。
      「出口実現の学習課程」は,箱物である。
      箱物を持たされた者は,内容を埋める作業を開始する。
      これは,「組織活性化」であり「仕事創出」である。
      一般に,箱物に対する評価は,内容が伴うかどうか (内容が思考停止されていないかどうか) ではない。それがもたらす「経済効果」の大きさである。

    学校数学は,出口論による自身の活性化を方法にして,生きている。
    この出口論は,「作用主陶冶」の枠組でつくる。
    学校数学が生きるとは,出口論をつくるということであり,「作用主陶冶」の枠組を用いるということである。

    これは,見方をかえて言えば,学校数学は自身活性化のために「作用主陶冶」を方便として用いるということである。
    したがって,「作用主陶冶」に対する理論的論難は,無意味である。 ──方便に対する理論的論難は,無意味である。
    作用主陶冶主義は,その社会的役割において,学校数学がつねに含み持つことになるものである。