Up 「形式陶冶」は,作用主陶冶の対立概念 作成: 2013-09-05
更新: 2013-09-05


    『研究』の「形式陶冶説批判」は,およそ教育になっていない現前の学校教育の原因は「形式陶冶」の思想にあるとし,「形式陶冶」の考えは能力説の「作用主が作用する」に基づく「作用主陶冶」の考えであるとし,そこで「作用主が作用する」を批判し,この批判が成ったことを以て,「形式陶冶」に対する批判が成り,現前の学校数学に対する批判が成った,とするものである。
    そして,『研究』は,現前の学校教育に「人間教育」を対置する。

    しかし,その後の数学教育の歴史は,作用主陶冶と「人間教育」が結ばれる形を現していく。
    これの示すことは,作用主陶冶と「人間教育」は少なくとも対立する概念ではないということである。

      註 : 『研究』の「形式陶冶説批判」は,作用主陶冶批判である。
    よって,作用主陶冶と「人間教育」は対立しないとなると,「『研究』とは何であったのか?」となってしまう。
    実際,批判先を誤った批判は,理論的には無効である。
    しかし,『研究』は,無用にはならない。
    それどころか,大いに価値が認められるところとなる。
    何を以てして?
    その働き──即ち,歴史的役割──を以てしてである。
    §「学校数学改造の契機」

    では,『研究』が批判した作用主陶冶は,正しくは何を対立させることになるのか?
    本論考は,それを「形式陶冶」であるとする。

    『研究』は,「形式陶冶」を作用主陶冶のことにした。
    本論考は,「形式陶冶」を作用主陶冶の対立概念にする。
    実際,この論考を以下で行っているところである: