Up 「学校数学=生態系」 作成: 2013-08-20
更新: 2013-08-20


    「形式陶冶説批判」は,「教育の社会化」「人間教育」指向の立場から,当時の「純正数学」指向を批判する。
    批判の方法は,「純正数学」指向を「作用主陶冶」指向と定めることである。
    このとき,「純正数学」指向の「作用主陶冶=形式陶冶」に対し,「教育の社会化」「人間教育」指向が「実質陶冶」になる。

    いまは,「教育の社会化」「人間教育」の系譜にある「生きて働く力」が,<数学で>として,「作用主陶冶=形式陶冶」になる。
    対して,<数学を>が「実質陶冶」になる。

    この捻れ/逆転をつくったものは,学校数学・数学教育学に棲むエゴである。
    ──エゴが自身の<生きる>を求めて相互作用する。 そして,捻れ/逆転が,均衡相に至る形だったというわけである。

    また,「生きて働く力」は,思想・理念として立っているのではない。
    出口論として立っている。
    出口論は,学校数学・数学教育学の活性化・活性持続にその理由がある。
    そして,学校数学・数学教育学の活性化・活性持続は,学校数学・数学教育学に棲むエゴが自身の<生きる>のために必要とするものである。


    学校数学は,各種エゴが相互作用する力学場である。
    エゴの運動モーメントは,それの<生きる>である。
    この意味で,学校数学は,エゴの生態系である。
    エゴと理念は,対応しない。
    学校数学は,理念の歴史のようにこれを見たら,間違う。
    「形式陶冶説批判」とその後の歴史は,このことを示す。

    こうして,「学校数学=生態系」のテーマが立つ。
    実際,学校数学は,各種エゴの生きる生態系として見るときに,科学的対象になる。
    思想・理念の有り様のように考えているうちは,科学ではない。