Up 「学校数学=生態系」: 要旨 作成: 2013-08-17
更新: 2013-08-17


    学校数学そして数学教育学は,二派の対立構造を現す。
    『研究』の時代の「二派」は,形式陶冶説批判で批判される側と批判する側である。
    これは,「純正数学」対「教育の社会化」ないし「人間教育」である。
    そしてこれは,「数学を-対-数学で」の見掛けで,いまに続く。

    『研究』の時代の「数学を-対-数学で」では,「数学を」が「形式陶冶 (作用主陶冶)」であり,翻って「数学で」は「実質陶冶」ということになった。
    いまの「数学を-対-数学で」では,「数学を」が「実質陶冶」になり,翻って「数学で」が「形式陶冶 (作用主陶冶)」になる。
    そこで,「形式陶冶説批判」とは何であったのか?ということになる。 (本論考のテーマになってくるわけである。)

    これが示すことは,「形式陶冶説批判」の「形式陶冶」は見掛けだということである。
    対立しているのは,「形式陶冶 (作用主陶冶)」を正しいとする者としない者ではない。
    では,対立しているものは何か?
    即ち,本質的対立は何か?

    本論考は,それが<研究者エゴの対立>であることを示す。
    さらに本論考は,これを学校数学そして数学教育学の力学をなすものとしてとらえる。

    このように,『研究』の「形式陶冶説批判」をいまの視点から見るとき,「形式陶冶説批判」とは何であったのか?となり,そしてここから,本質的に対立しているところのものは何か?の問いに進むことになる。
    この問いに進ませることは,『研究』の反照的含蓄というべきものである。