Up 「形式陶冶」の捉え:要旨 作成: 2013-08-20
更新: 2013-08-20


    「形式陶冶」の古典的な捉えは,つぎのものである:
      「学を行うことは,形式陶冶である」
      「数学の勉強は,学を行うことの一部として,形式陶冶に与る」

    この場合,形式は,一個の人格のように考えるものである。
    特に,「この勉強にはこの形式が対応する」「この形式にはこの行動が対応する」というふうに考えるものではない。

    『研究』の謂う「形式陶冶」は,古典的な意味の「形式陶冶」ではない。
    即ち,『研究』は,形式陶冶説は能力説の「作用主→作用」に理論的根拠をおいているという通説に立って,形式陶冶説批判をする。
    「形式陶冶」を,「この勉強にはこの形式が対応する」「この形式にはこの行動が対応する」を言うものであると定める。
    『研究』の謂う「形式陶冶」は,作用主陶冶である。

    本論考は,『研究』の謂う「形式陶冶」には「作用主陶冶」の言い回しを用いるとする。 「形式陶冶」のことばは,専ら古典的な「形式陶冶」の意味で用いるとする。