Up <形式が現れる>は,<我が消える>と相応じる 作成: 2013-09-07
更新: 2013-09-07


    形式は,見れば見える,聴けば聴ける,触れば触れる,というものではない。
    形式が見える・聴ける・触れるようになるのは,カラダづくりのたまものである。

    カラダがつくられていない段階では,世界はノイズである。
    カラダがつくられてくるに応じ,世界は輪郭・形・価値 (大事/肝心) ──形式──を現してくる。

    このカラダづくりは,「成長」と呼ぶにふさわしい。
    ──ただし,この「成長」の意味が「子どもから大人へ」ではないことに,注意しておく。

     例 : 学校教員にとって,授業はなかなかできるようにならない。実際,いつまでもできない。
    未熟なうちは,無駄をやって,肝心をしない。
    経験を積むにつれ,無駄が減り,肝心をやるようになる。
    これは,授業の輪郭・形──形式──が見えてきたということである。
    翻って,それより前は,ノイズ (「五里霧中」) の中にいたということである。
    このタイプの成長が,「形式陶冶」である。


    世界をノイズとして現すものは,我(が) である。
    我が,形式が自分に現れてくることを邪魔する。
    形式が現れてくることは,我が消えていくことと相応じる。
    成長は,一面,我が消えていくことである。

    「対象の捉え」「転移」は,「カラダの内なる形式」モデルだと,カラダの内なる形式が盛んに働くイメージになる。
    「カラダの外なる形式」モデルだと,カラダを閑かにして・我を空しくして,対象を聴くイメージになる。

     註 : 我が消えることを自分に意識的に課すとき,それは「道」である。


    本論考は,「形式陶冶」のイメージに「風化造形」を用いている。
    ここで「風化造形」は,「我が消えていく造形」である。