Up はじめに 作成: 2013-08-11
更新: 2013-08-11


    本論考は,「学校数学=形式陶冶」の立論に向かう全体論考の一部になるものである: 「学校数学」論 ──「学校数学の勉強は何のため?

    「学校数学=形式陶冶」立論の理由になっているものは,つぎの認識である:
      《生徒からの「学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」に対し,
     「得」を答える形は, 「形式陶冶」に限る》
    すなわち,《学校数学を合理化する形は,形式陶冶に限る》ということである。
    ──ここで謂う「形式陶冶」は,古典的な意味の「形式陶冶」である。

    数学教育史の中に,「形式陶冶説批判」と称される出来事がある。
    「形式陶冶説批判」は,文字通りにこのタイトルを読めば,「形式陶冶」を批判していることになる。
    そしてここから,《「形式陶冶説批判」の批判した「形式陶冶」が,「形式陶冶」である》の思い込みがつくられる。

    事実は,「形式陶冶説批判」の批判した「形式陶冶」は,古典的な意味の「形式陶冶」ではない。
    少なくとも,長田新が『形式的陶冶の研究』(以下『研究』) で批判している「形式陶冶」は,古典的な意味の「形式陶冶」ではない
    よって,「形式陶冶説批判」の言い回しは,「形式陶冶」の主題化において混乱のもとになる。

    そこで,本論考を以て,『研究』で批判されている「形式陶冶」が古典的な意味の「形式陶冶」ではないことを,明らかにする。
    これには,「形式陶冶説批判」で有罪にされたままの「形式陶冶」の無実を晴らすという意味もある。


長田新. 『形式的陶冶の研究』, モナス, 1923
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980372
(近代デジタルライブラリー/国立国会図書館)