Up 「形式陶冶説批判」の構造:要旨 作成: 2013-08-22
更新: 2013-08-22


    この章では,『研究』の「形式陶冶説批判」がどのようなものであるのか,そもそも『研究』はどのような論考なのか,を論ずる。

    「形式陶冶説批判」は,当時の学校教育に対する批判の形になったものである。
    学校教育を《深刻な問題がありながら,形式陶冶を名分にして是認している》と見るところから,「形式陶冶説批判」になる。

    このとき,「形式陶冶説批判」における「形式陶冶」の捉え方が問題になる。
    実際,『研究』の謂う「形式陶冶」は,古典的な意味の「形式陶冶」ではない。
    『研究』は,「形式陶冶」を能力説の「作用主→作用」にもとづかせて,「作用主陶冶」の意味にする。

    こうして,『研究』においては,作用主陶冶/能力説批判が成ることを以て「学校教育批判=形式陶冶説批判」が成ることになる。
    そこで,つぎが『研究』の構成になる:
    1. 「教育がなってない」を「形式陶冶」に溯行/還元
    2. 「形式陶冶」を作用主陶冶/能力説に転じる
    3. 作用主陶冶/能力説を批判

    では,『研究』の作用主陶冶/能力説批判は,成ったのか?
    『研究』は,これを形而上学批判として行う。
    したがって,その批判は,「形而上学批判」を受け入れるところ (プラグマティズム) では成り,受け入れないところ (表象主義/合理主義) では成らないというものである。