Up 作用主陶冶説批判の今日的射程:要旨 作成: 2013-08-14
更新: 2013-09-04


    『研究』は,自身を「形式陶冶説批判」と定めつつ,「形式陶冶」を射程から外した筋違いの論をつくってしまう。 すなわち,教育の体(てい) をなしていない教育に対する批判を,「形式陶冶説批判」にして,さらに,「作用主陶冶」批判を「形式陶冶」批判のことにする。

    一方,『研究』は,これを最初から「作用主陶冶説批判」のテクストとして見れば,いまも/これからも通用するテクストである。
    それは,作用主陶冶主義が,学校数学および数学教育学の主流として続いてきているためである。

    「作用主陶冶」のもとは,「作用主が作用する」(能力説) である。
    「作用主が作用する」は,今日,認知科学に引き継がれている。
    そして,いまの数学教育学は,認知科学を自身の「科学」にしている。
    学校数学出口論が,このことを端的に示す──出口論はつぎの枠組で書かれる:
      「‥‥する」→「‥‥する力が‥‥する」→「‥‥する力の陶冶」

      実際,出口に「生きて働く力」を掲げる者は,「作用主陶冶」の考えに進む。 出口に「生きて働く力」を措く学校数学は,作用主陶冶主義になる。
      出口に「生きて働く力」を措くことは,しぜんなこととして受けとめられる。 したがって,作用主陶冶主義が,数学教育学・学校数学の主流になる。
      現に,数学教育学・学校数学は「学校数学=作用主陶冶」の考え方がずっと主流である。

      これをさらに一般化して述べるならば:
        学校数学は,出口論を以て自身を立てる。 即ち,「出口実現」を自身の形と定める。
      出口の言い方は,「何々ができる者/人材」である。 学校数学は,「何々ができる力」の陶冶のことになる。 ここで,「何々ができる力」は,作用「何々ができる」の作用主である。
      こうして,出口論は,作用主陶冶主義になる──作用主陶冶主義の趣きで現れる他ない。

    『研究』は,「‥‥する力が‥‥する」を批判する。
    この批判は,「‥‥する力の陶冶」の批判になり,そしてこの形でそのまま,いまの学校数学出口論に対する批判になる。

    ただし,その批判は,「形而上学批判」を形とするものである。
    「‥‥する力の陶冶」はもともと形而上学として立つものであるから,これに対して「それは形而上学だ」を言っても,批判にならない。
    学校数学・数学教育学において,「‥‥する力の陶冶」の枠組は揺らぐことはない。
    『研究』の能力説批判は,学校数学・数学教育学に対しては全くの無力を曝すことになる。
    ここに認めるべきは,表象主義/合理主義の強さ──西欧思想・哲学の伝統 (主流) としての強さ──である。