Up 作用主陶冶主義は,認知科学の含意 作成: 2013-08-12
更新: 2013-09-05


    数学教育学は,表象主義に即く。
    実際,数学教育学が「学」であるという意味は,表象主義をやるということである。

    数学教育学は,自身の「科学」を認知科学にしている。
    自身の依拠しやすい表象主義を,認知科学に見出したからである。

    「形式陶冶説批判」は,「形式陶冶」を「作用主陶冶」に解釈し,これのもとになる「作用主が作用する」(能力説) に対する批判を内容にしていく。
    この「作用主が作用する」は,今日,認知科学に受け継がれている。

    今日,数学教育学は,学校数学を「作用主陶冶」に定めるものになっている。
    ──実際,「数学的○○」の出口論を唱えているわけである。
    この作用主陶冶主義は,数学教育学が認知科学を「科学」とすることの含意である。

    そこで,「形式陶冶説批判」は,「作用主陶冶」批判としては,そのままでいまの数学教育学・学校数学に対する批判になる。 ──批判として通用する。
    実際,『研究』が能力心理学を批判してつぎのように言う「単純・虚妄」「病根」は,例えば「問題解決ストラティジー」論で観察されたところのものである:
    能力心理学はクリスチャン・ヲルフがリンネ・バフォン等の記載博物学の研究法に暗示されて建設したもので,この心理学の根柢は今から見れば極めて単純であり虚妄である。
    即ち種種の精神作用を叙述するに当って,此心理学徒は先ず精神作用分類の必要を感じ知覚・認識・注意・記憶・想像・理解・意志などの部属概念を作り,総ての精神作用を其の下に配列した。
    是等の部属概念は自然現象に於ける重量・音響・温度・光線等の概念に相当するもので,ヲルフ等当時の心理学者は第十八世紀に於ける自然科学者の動功に眩惑され,精神現象を叙述するに方って自然科学者の分類法を機械的に模写した。
    かく精神現象を一定の部属概念のもとに分類することは,事実を記載するに少なからず便利であるが,事実の説明ということに対しては何の意味もない。 蓋し説明と叙述とは全然別事である。
    能力心理学の病根はここにある。
    即ちヴント教授の云うように,彼等は精神現象分類のために設けた部属概念に相応する精神精力或は能力ありとなし,是等諸能力の変換し共働することに依って総ての精神作用が生起するものと考えた。
    ‥‥
    諸々の精神作用が何れも夫れ々々の精神能力の発現なりという思想は,俗人には極めて理解し易きところから忽ち教育界に弘布されて,教育的努力は精神作用の源たる能力そのものの陶冶を第一にせんとする傾向を作った。
     (『研究』, pp.30,31)

    『研究』の能力説批判は,今日では認知科学批判である。
    『研究』の「形式陶冶説批判」は,今日の学校数学主流に対する批判である。