Up 作用主陶冶/能力説の押さえ 作成: 2013-08-12
更新: 2013-08-12


    つぎは,『研究』が作用主陶冶/能力説の思考法を押さえているくだりである:
    人間の精神作業が観察,記憶,注意,判断,推理など若干の種類に分類され,而して是等の精神作用が夫々その精神作用の主としての能力を有するという思想は,教育の重心を精神作用の主としての能力そのものの陶冶に置くべしという結論を産み易い。
    何故なれば,凡そ精神作業は其の精神作用の主なる能力の発現に外ならないが故に,精神作用の能率を増すべく撰ばれたる方法は,能力そのものの陶冶でなくてはならない。
    能力説に依れば,各の精神能力は普遍的性質を有し,従って如何なる種類の内容に対しても同様に働くが故に,かかる普遍的性質ある能力の陶冶は,学習経済の見地からして教育の中心観念となる。
    既に教育の中心観念が能力の陶冶にありとすれば,学習内容はそれ自身目的としての価値を有しない。
    蓋し目的は能力の陶冶であって,学習内容は能力を陶冶する単なる手段に外ならない。
    ‥‥
    而して能力の陶冶は学習内容の如何によるよりは,寧ろ学習の形式に依るが故に,この種の見解は何を学ぶべきかの問題より,寧ろ如何に学ぶべきの問題即ち what の問題より how の問題となる。
    陶冶論よりすれば,学習方法にして宜しきを得れば能力は陶冶せらるべく,能力だに陶冶せらるるならば,内容そのものの意義と価値とは敢えて問うを要しない。
    (『研究』, pp.10,11)

    またつぎは,『研究』が作用主陶冶/能力説の経緯・歴史を押さえているくだりである:
    古代希臘より第十七世紀に至るまでの形式的陶冶の発展‥‥はただ形式的陶冶そのものの発展であって,此原理の学的根拠の曾て明かにされないといういうことは,ソクラテス以来ロックに至るまでの形式的陶冶の歴史の示すところである。
    形式的陶冶に兎も角何等かの根拠を与えようとしたのは,バルト教授も云ったように,第十八世紀の独乙の学徒である。
    そして此方面に於て先ず記憶すべきはヂー,ハイネの考である。 ハイネは曰う。「文法に関する正確なる暗唱と理解とは,同時に論理的性情の教養となり,又一国語に対する熟練は必然的に他国語の学習を容易にし,其熟練を助ける。」 かくてハイネは古典の内容の知識の外に,古典の与うる理解力の一般的陶冶を力説した。
    是に於てか知識と対立して知識力,理解と対立して理解力の観念が,教育上自覚せらるるに至った。 ハイネに依って稍々自覚的に扱われたる斯かる観念的対立は,第十八世紀の哲学に声援されて,人は好んで経験に於ける形式と内容との対立を認め,内容より引き離したる形式そのものの教養を重んずるようになって来た。
    斯かる傾向に対して更らに有力なる味方として現われ来ったものが,所謂能力心理学である。 第十八世紀の独逸心理学を支配したものは,人も知る如く能力心理学 Vermögenspsychologie である。
    能力心理学はクリスチャン・ヲルフがリンネ・バフォン等の記載博物学の研究法に暗示されて建設したもので,この心理学の根柢は今から見れば極めて単純であり虚妄である。 即ち種種の精神作用を叙述するに当って,此心理学徒は先ず精神作用分類の必要を感じ知覚・認識・注意・記憶・想像・理解・意志などの部属概念を作り,総ての精神作用を其の下に配列した。 是等の部属概念は自然現象に於ける重量・音響・温度・光線等の概念に相当するもので,ヲルフ等当時の心理学者は第十八世紀に於ける自然科学者の動功に眩惑され,精神現象を叙述するに方って自然科学者の分類法を機械的に模写した。
    かく精神現象を一定の部属概念のもとに分類することは,事実を記載するに少なからず便利であるが,事実の説明ということに対しては何の意味もない。 蓋し説明と叙述とは全然別事である。 能力心理学の病根はここにある。 即ちヴント教授の云うように,彼等は精神現象分類のために設けた部属概念に相応する精神精力或は能力ありとなし,是等諸能力の変換し共働することに依って総ての精神作用が生起するものと考えた。
    ‥‥
    諸々の精神作用が何れも夫れ々々の精神能力の発現なりという思想は,俗人には極めて理解し易きところから忽ち教育界に弘布されて,教育的努力は精神作用の源たる能力そのものの陶冶を第一にせんとする傾向を作った。
     (『研究』, pp.29-31)