Up 「形式陶冶」の押さえ 作成: 2013-08-14
更新: 2013-08-18


    本論考の「形式陶冶」の捉えは,つぎのものである:
       およそ学習は,形式陶冶に与る。
    ここで「与る」の意味は,「形式は,学習ごとに考えるというものではない」である。

    『研究』が捉える「形式陶冶」は,つぎのものである:
    さて正統の意味に於ける形式的陶冶の概念は,極めて単純であって,一切の学習がその効果は於て普遍的意義を有するというのが普通の解釈である。
    (『研究』, p.8)
    『研究』が謂う「形式陶冶」が本論考の謂う「形式陶冶」と違う点は,形式陶冶を学習ごとに考えることと,「普遍的」のことばを用いるところである。

    実際,特個に「普遍的」を押しつけるところが,「形式陶冶説批判」の要点である。
    「特個は普遍」は,そもそも無理な要求である。
    これを,「形式陶冶」の縛りにする。
    これを縛りにされた「形式陶冶」は,簡単に批判されるものになる。
    即ち,「特個は普遍」を論難することが「形式陶冶」を批判したことになり,そして「特個は普遍」を論難することは,たやすい。

    この批判を,『研究』は行うわけである。
    『研究』の行う批判は常套的なものであるので,この「常套」を押さえる意味から,『研究』の論述をそのまま逐ってみるとしよう。

    先ず,「形式陶冶」を「一般陶冶」に転じる:
    今,或る種の学習に於て一定の精神作業を行えば,その作業は精神そのものに一種の動的傾向を形成する。 既に精神そのものに一種の動的傾向の形成された以上,この動的傾向は随時随所に現れて,仮令其の精神作業が最初の精神作業と如何に事情を異にするとも,其の作業能率は高められるというのである。
    (『研究』, p.8)
    「一般陶冶」に転じることで,どうなるか?
    「転移」の導出になる。
    そしてこれは,先にとっておいた「普遍的」をここで合わせることによる,「普遍的転移」の導出である:
    今例を幾何学の学習にとる。
    幾何学の学習に於て一定の問題を解かしむることが,その問題の解き方を会得せしむるのみにては,形式的陶冶とは云われない。 然るにその問題を解きたる結果として推理力が陶冶され,且つこの推理力がその他の幾何学の問題を解くには勿論,幾何学以外凡そ推理を要する如何なる精神作業にも普遍的の効果を現したとすればそれは形式的陶冶である。
    故に形式的陶冶は学習作業の普遍的効果を予想するものである。
    而して学習作業の普遍的効果の予想は,これを他の一面より見れば,練習の転入 (Transfer) という心理的基礎に立つものと見なければならない。
    蓋し,一定の精神作業に於て精神そのものに動的傾向を形成したとしても,その動的傾向が固定的であって,事情を異にする精神作業に転入した (註 :「しない」の誤記) とすれば学習作業に於ける普遍的効果ということはあり得ない。
    一定の精神によって結果されたる所謂動的傾向が,既に如何なる事情のもとに行わるる精神作業にも転入される可能性でありとすれば,かかる可能性としての動的傾向は,当然学習内容又は一般に経験内容より自由なる精神力でなくてはならない。
    (『研究』, pp.8,9)


    『研究』には,「形式陶冶」の歴史を論述する章がある。
    これは,「形式陶冶を立場とする教育,形式陶冶を立場として謳う教育」の歴史として『研究』が捉えたものの論述である。
    ただしここでは,「形式陶冶を立場とする教育,形式陶冶を立場として謳う教育」は,「反実学」とほぼ同義になる。
    以下は,これの抜粋である:

    開式的陶冶の伝統は遠く古代希臘の教育に発端する。 ソフィスト一派が紀元前第七世紀より第六世紀にかけて発達した希臘学術の内容の伝達に没頭せるにあきたらずして,新方法を以て一世の啓蒙に従事した彼のソクラテスは,古来形式的陶冶論の父と呼ばれ,多くの形式的陶冶論者は何れも其の主張を直接間接にソクラテスの見解に結合する。 ソクラテスによれば,教育の目的はソフィスト一派の理想とするが如き当意即妙の知識の伝達にあるのではなくて,普遍妥当なる真理に達する思考力の教養にある。 かるが故にソクラテスは,機械的講義に依って知識を授けんとするソフィスト一派の常套法に反対し,弁証法や反語法に依って対者の思考力を練へようとした。 蓋し正確なる結論を導きうる精神そのものの陶冶を目的としたからである。
    (『研究』, p.19)

     プラトーによれば,教育の最高目的は哲学的教養に依ってイデアの世界を解させるにある。 其の哲学的教養を施す与件として彼は算術,幾何,天文などの諸教科を教えている。 彼によれば実質的教科としての是等諸教科の価値は採るに足らない。 理想国の中にも言っておるように,幾何にせよ,天文にせよ,問題の課し方に依って推理力を練ることが出来る。 彼れの算術を見るや,商売人の意味に於てでなく,実に哲学者の意味に於てせるは言うまでもない。 プラトーにあっては,自然科学や厳密科学は,雑多の現象中によく普遍妥当の真理を認識する力の教養ということによってのみ価値を有するのである。 彼が『生来遅鈍の者も算術の練習に依って万事につけ敏捷になることが出来る』と云い,或は又『幾何を学習せる者と然らざる者とは凡そ物の理解に驚くべき差異あり』と言っておるのに徴しても,如何に彼が形式的陶冶を重んじたかが判かる。
    (『研究』, p.20)

     アリストテレスは形式的陶冶に関して直接意見を披瀝していない。 けれど彼が一面には教育上に於ける利の観念を斥け,他面に,或は弁証法を以て陶冶の最高手段と見,或は高等教育に於て数学特に幾何学による能力の練習を力説せる点などより推せば,彼の教育主義がソクラテスやプラトーと同じ立場に在ったことは察するに難くない。 総じて形式的陶冶の教育は自由教育 (Liberal Education) に附きものであった。 吾等は希臘の教育が一般に自由教育の典型であり,其の自由教育の組織がアリストテレスによって試みられたということを思う時,彼の教育説に於ける形式的陶冶の位置を大方ながら察知することが出来る。 自由教育が如何に密接に形式的陶冶と結びつくかは,アリストテレス自らの自由教育説によっても明らかで在る。 即ち彼は夫れ自身目的なる自由教育をば,先ず利のための教育より明確に区別した。 彼に依れば,常に実際的必要に忙殺されては,人は到底自由崇高なる精神の所有者たることが出来ない。 而も他面に於て思惟を本質とする理性 nous の活動は,人類の最高善となると同時に,一切の物欲より解放された最も自由の活動である。 斯くして彼の教育理想は一切の物欲より解放せられた理性的人格の教養であって,実用や効果を目的とする教科は彼にあっては無用であった。 教育の理想が既に利を超越して,純粋思惟を本質とする理性の教養にありとするならば,其の必然の結果は,純粋思惟の活動に必要なる思考力の教養ということが教育の主目的とならざるを得ない。 アリストテレスが形式的教科としての弁証法,数学,わけても幾何学に多大の教育的意義を附したのは,彼が純粋思惟を本質とする理性の活動それ自身を目的とした自由教育説より導かれた必然のコロラリーとも見るべきである。 而もアリストテレスによって説かれた教育説は,或は表流として或は底流として二千余年の伝統を維持して今尚人類教育に一精力を形造っておるということは,凡そ形式的陶冶を研究せんとするものの見逃してはならない一事項である。
    (『研究』, pp.20-22)

    若し夫れ形式的陶冶の黄金時代を史上に求めるならば,そは云うまでもなく中世であった。 形式的陶冶は中世教育の基調である。 蓋し自然を仮像と観念し,現実を罪悪と宣告した中世の彼の超自然的の人生観が,現実生活に即した「実」の教育を呪詛せるは察するに難くない。 かくて中世の教育は宗教的色彩を帯びた形式的陶冶を第一とした。 惟うに第十一世紀より第十五世紀に至る五百年の学術教育を支配せるものはスコラ哲学であった。 スコラ哲学による教育は,基督教のドグマを論理的に統一し,且つ反対論より自説を擁護する論理的能力の教養を目的とするものであって,アリストテレスの形式論理学は,その屈竟の武器として寵用された。 其の目的とするところ既に論理的能力の教養に在るを以て,その教育方法の尊ぶところは,論理的能力の教養に必要な条件である。 即ち教材は難渋煩雑なるべき,材料と生活との交渉の如きは問うを要しない。
    (『研究』, pp.22,23)

    中世は大学勃興の時代であって,有名なるナポリ・ボロニヤ・パリ・ケンブリッヂ・さてはオックスフォード等の諸大学は最も早く建設され,第十三世紀には十九,第十四世紀には二十五,第十五世紀には実に三十の大学設立を見た。 是等の大学は何れもその前身を僧庵又は教会に有するを以て,其の教風は全くスコラ哲学に支配され,種々の形式的教科によって煩瑣なる陶冶が行われ,第十五世紀の半ば頃まではアリストテレスの著書は各大学の中心教材であり,わけてもその形式的論理学は第一位を占めた。 当時大学は政治上の一勢力であって議員権を有し,議会に発言権を有し,あらゆる国家問題にさえ容喙したのであるが,その最大の影響は固より当時の学界に対してであって,当時の学術教育は全く大学の学風に同化され,而してその大学の学風は上述の如く超越主義であって,生活と交渉なき形式的陶冶の立場であったから,中世教育に於ては,形式的陶冶がその基調をなして居たということが出来る。
    (『研究』, pp.23,24)