Up 「人間教育」 作成: 2013-08-16
更新: 2013-08-16


    『研究』の最後の章は,自身の学校教育論・学校数学論である:
    人間教育の帰趨

    以上論ずるところに依って,吾等は形式的陶冶破滅の道行を明らかにし,且つ形式的陶冶の破滅に依って,教育の社会化という一種功利的見解が,一大発展を営んだということを明らかにした。
    けれど形式的陶冶の破滅は,果して教育の社会化を必然するであろうか。

    此問題に答えるために,私はしばらく人間教育論の「いろは」に還らなくてはならない。
    私の考えるところでは,教育の目的は形式的陶冶でもなければ,社会的でもない。

    数学教育を考える人等は,古来形式的陶冶と社会化との間を彷徨しておるのであるが,教育の根本はその何れにもないようである。
    数学教育の目的は,人間教育の目的の外にあってはならない。
    数学教育は人間教育内のことである。
    人間教育の外に数学教育があるというようなことがあっては,根本的の誤である。

    人間教育の目的とは何か。
    人間教育の目的はただ人間性の顕現にある。
    人間性とは真理や道徳や宗教や芸術を創造して行こうとする内部からの自発性である。
    斯かる自発性に培うことを外にしては,教育は考えられない。

    数学教育は自然科学と相並んで,人間性中,真理への自発性に培わなくてはならない。

    自発性に培うとは,自己に生きしめることである。
    自己に生きしめるは,凡そ教育の最後の立脚点である。

    読方も綴方も自然科も地理も歴史も図画も唱歌も,児童を自己に生きしめようとして,自発性に培うことに専らであるにも拘わらず,ひとり数学教育は,自発性に培い,児童を自己に生きしむることには,甚しく冷やかであるようである。
    数学は元来難解のものであり,且つ難解なるの故を以て,「頭を練る」という,陶冶説を墨守しては,教育数学の王国は永久に打ち築かれない
    であろう。 数学そのものは難解であるが,教育数学は,数理認識への児童の自発性に即したものでなくてはならない。
    数理の認識は,真理一般の認識中に座席を占めつつ,本来人間性内に秘められた価値意識である。

    本来人間性内に秘められざるものは,教育活動の対象たるを得ない。
    教育活動の本質は,人間性内に本来秘められおるものを顕現するにある。
    人間性内に本来秘められざるものに対して働らきかけることは,無謀でもあり僭越でもある。

    他のあらゆる教科に比して,この無謀と僭越とを敢てするものは,実に数学教育である。
    而して斯かる無謀と僭越とを敢てせしむる源は大方彼の形式的陶冶である。
    数学教育も年と共に教育化されては来たが,他教科に比して今尚お最も興味ない教科であるということは否めない。
    数学は難解であっても,教育数学は難解であってはならない。
    他教科にして興味あらば,数学科も亦興味あるべきである。

    蓋し興味とは自己に生きるということである。
    自己が自己に還り,自己を発見し,自己に生きるところに真の興味が生じて来る。
    興味とは「ふるさと」に帰り,自己に生きる心である。
    教育が若し児童に於ける人間性に自然なそして真実な道を辿るならば,そは必然的に児童を人間性の「ふるさと」に還らしめ,自己に生きしめて,興味を感じしめることが出来る。

    数理認識の世界はかくして始めて人格的な発展を営むことが出来る。

    凡そ人格的に発展せざる認識は生命ある認識とは云い得ない。
    児童に於ける人間性に不自然なそして不真実な道を,殊更ら選ぶことに依て頭を練ろうというような立場に立っては,生命ある認識は発展しない。
    現代の数学教育は久しく人の子をその「ふるさと」より奪った前非を悔い,静かに神の裁判を待たなくてはならない。
    (『研究』, pp.54-57)

    この中の「興味─ふるさと」のくだりを,本論考は「カラダの共振」のように読む。 ──本論考は,カラダ主義である。
    そして,カラダ主義は,『研究』にも処々にちらついて見えるところのものである。

    教育は,カラダへの働きかけである。
    カラダへの働きかけになっていない「教育」は,端(はな)から教育ではない。
    それは,「教育」の僭称である。
    『研究』がここで論じてことは,理想家肌の表現/レトリックを差し引けば,これ以上でも以下でもない。