Up 「形式陶冶」を作用主陶冶/能力説に転じる 作成: 2013-08-12
更新: 2013-08-12


    つぎは,『研究』が「作用主陶冶」の論理を押さえるくだりである:
    人間の精神作業が観察,記憶,注意,判断,推理など若干の種類に分類され,而して是等の精神作用が夫々その精神作用の主としての能力を有するという思想は,教育の重心を精神作用の主としての能力そのものの陶冶に置くべしという結論を産み易い。
    何故なれば,凡そ精神作業は其の精神作用の主なる能力の発現に外ならないが故に,精神作用の能率を増すべく撰ばれたる方法は,能力そのものの陶冶でなくてはならない。
    能力説に依れば,各の精神能力は普遍的性質を有し,従って如何なる種類の内容に対しても同様に働くが故に,かかる普遍的性質ある能力の陶冶は,学習経済の見地からして教育の中心観念となる。
    既に教育の中心観念が能力の陶冶にありとすれば,学習内容はそれ自身目的としての価値を有しない。
    蓋し目的は能力の陶冶であって,学習内容は能力を陶冶する単なる手段に外ならない。
    ‥‥
    而して能力の陶冶は学習内容の如何によるよりは,寧ろ学習の形式に依るが故に,この種の見解は何を学ぶべきかの問題より,寧ろ如何に学ぶべきの問題即ち what の問題より how の問題となる。
    陶冶論よりすれば,学習方法にして宜しきを得れば能力は陶冶せらるべく,能力だに陶冶せらるるならば,内容そのものの意義と価値とは敢えて問うを要しない。
    (『研究』, pp.10,11)